杏が前に寄って、小さな口をとがらせた。「前に干ママが食べて何回も吐いたの。すごく苦しそうだった。あの年、干ママはたくさん痩せちゃった、すごくたくさん。
おじさん、干ママを押した二人はひどいよ」
温井研介は唇を引き締め、居場所がないような気分になった。
中川紀子は杏の頭を撫でながら言った。「杏、いい子ね。悪い人には天罰が下るわ。明日ママと一緒に病院に干ママを見に行く?」
「うん」
「春華も行くー」
「みんな行くわよ。それじゃあ、温井さんはもういいです」
研介はうなずき、薬を持って病院に戻った。
VIP病室に入るとすぐ、清水詩織はすでに目を覚ましているのが見えた。ただ一言も発さずにベッドの頭に寄りかかっているだけで、看護師はどこかに行ってしまっていた。
彼は近づき、薬をベッドの脇に置いた。「これは中川さんがくれた薬だ。飲み方は分かるそうだな」
「ええ、食後に飲むの。ありがとう」詩織の声はかすれていた。
研介は椅子に座り、両手を膝の上に置いたまま、何を言えばいいのか分からなかった。
しばらくして、詩織が突然口を開いた。「全部見たの?」
研介は「ああ」と声を出した。「父さんと母さんが仕返ししてくれるよ」
「そう、どうやって?」
研介は知らなかった。小野莉奈と温井拓海は金浦湾に戻り、自分も戻ったが家には入らなかった。
「いいわ、彼らに期待してないから。水を一杯注いでくれる?お兄さん」
詩織の声はとても穏やかで、温井美咲の件を気にしているようにも見えず、以前と変わらなかった。
研介はうなずいた。「少し待って」
近くの水差しを手に取ると、中に水が全くないことに気づいた。ウォーターサーバーもなかった。考えた末、彼は立ち上がって水を汲みに行くついでに、小野莉奈に電話をかけることにした。
彼が出て行ってすぐ、詩織は小さな声で呼んだ。「風間葵」
シュッ!
一つの人影がベランダから飛び込み、彼女の前で片膝をついた。「お嬢様」
「私の素敵な妹が何をしているか見てきて」
「かしこまりました、お嬢様」
部屋は再び静かになった。詩織は本来、美咲と何かを争ったり口論したりする気はなかった。だが彼女は何度も自分に面倒をかけてきた。
そうであるなら、手段を選ばないと言われても仕方がない。
すぐに研介が戻ってきた。後ろには小野莉奈がついていた。彼女は研介の電話を受けるとすぐに駆けつけ、
食べ物も持ってきていた。詩織を見ると、すぐに小走りで近づき、涙が止まらなかった。
「詩織、大丈夫でよかった。ママが悪かったの。一瞬の油断で、こんな目に遭わせてしまって」
「大丈夫だよ。心配しないで。妹はどう?驚いてない?」
莉奈は彼女がこんな状態なのに他人を気遣う様子を見て、さらに胸が痛んだ。自分が美咲を罰しようとしたのに夫に止められたことを思い出し、
詩織のためにさらに辛くなった。手を伸ばして彼女の顔を撫でた。「バカね、こんな状態なのに、まだ他人のことを心配して」
研介は水を一杯注いで詩織に渡し、伝えた。「道夫はおじさんにひどく殴られて、今は祠堂で美咲と一緒に反省させられている。
おじさんが言うには、君の調子が良くなったら、直接彼を連れてきて謝らせるそうだ」
詩織はこの結果を予想していた。美咲は温井家に守られており、莉奈がどれだけ怒っても、このような簡単な罰を与えるだけだった。
道夫は小野家の命の源。人を殺しても、きっと潔白にしてもらえるだろう。今、謝罪に来るというのは、莉奈の面子を立てるためだろう。
「そう、それはいいことね。実は私にも非があるの。美咲妹と口論するべきじゃなかった」
これを聞いて莉奈と研介は驚いた。
莉奈は「どうしたの?」と尋ねた。
詩織はためらうように、頭を下げて言うべきかどうか迷っていた。
「話して。怖がらなくていいわ。ママがあなたを守るから」
詩織はシーツをきつく握りしめ、低くて柔らかい声で、喉に詰まるような感じで言った。「美咲妹と従兄は私を盲目の障害者だと言って、私が反論したら、ずっと私をあざ笑って、妄想だって言って、
それに私が帰ってくるべきじゃなかったって言ったの。
ママ、私の目は本当に良くなるわ。私がどうして美咲妹と従兄の怒りを買ったのか分からないの。どうして私にこんな仕打ちを」
最後の言葉は、聞いていて胸が痛むほど詰まっていた。
目撃者の研介は、彼女の話を聞いて、その八割を信じていた。
莉奈は心を痛め、彼女を抱きしめた。「ママは信じているわ。絶対に良くなるわ。たとえ全てを失っても、ママはあなたの目を治すわ。
あなたはママの娘よ、温井家はあなたの家なの。あなたは帰ってくるべきだったのよ。ママがあなたを守れなくてごめんなさい。ママが悪かったわ」
莉奈は心の中で、美咲は温井家にいるべきではないと思い始めた。その考えは心の中で芽生え、少しずつ成長し、彼女の心を侵食していった。
詩織は彼女の胸に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らし、肩を震わせ、本当に怯えているようだった。
しばらくして、莉奈の慰めの下で、詩織は泣き止み、食事を始めた。
莉奈は横の袋に詰まった大量の薬を見て驚いた。「こんなにたくさん、全部詩織のなの?」
研介はうなずいた。
「大丈夫、慣れてるから」と詩織は言った。
莉奈の胸はまた痛んだ。彼女の詩織はなんて物わかりがいいのだろう。その物わかりの良さが胸を痛める。
「いい子ね」
詩織は薄い唇で微笑み、また食事に集中した。
傍らに立つ研介は、詩織のその笑顔が、彼女を問い詰めた時に彼女がドアを閉めて彼の鼻を叩きそうになった時と似ていると感じた。
少し背筋が寒くなるような感じがした。偶然か、錯覚だろうか?
その頃、外はすでに暗くなり、月は明るく星はまばらで、夜風は心地よく、金浦湾十七号の灯りはまばらに灯っていた。
祠堂内は昼のように明るかった。
道夫は殴られたせいで長い間膝をついていたので、今は完全に諦めて柱の横に寄りかかり、口からときどき「あいたた」という声が漏れていた。
「ねえ、清水詩織は本当に死んだりしないよね?」
美咲は大きくあくびをして足を組んで座りながら言った。「多分大丈夫でしょ。助け上げた時まだ息があったし」
「はあ、俺の親父はマジで手加減しないな。美咲、今回は全部お前のせいで俺がこうなったんだぞ。こっちに来いよ」
道夫は色っぽい目で美咲を見つめた。
美咲の瞳の奥に一瞬、嫌悪感が走ったが、すぐに消え、声は甘ったるかった。「あらあら、従兄、ここは祠堂よ」
「別に問題ないだろ。どうせもう暗いし、俺の母さんは夜中に来るって言ってたし、今来ないと、もうチャンスないぞ。美咲、そんなに薄情じゃないよな?」
道夫はそう言うと、顔に明らかな怒りが浮かんだ。
美咲は状況を見て、立ち上がったが、足が動き始めたとたん、体が硬直した。
瞳孔は恐怖でいっぱいで、口は半開きになった。
道夫は彼女の変化に気づかず、いらいらして催促した。「早く来いよ、何してるんだ?」
美咲は震える声で頭を上げた。「あ、あなたの後ろ」
「俺の後ろ?後ろがどうした?」道夫が振り返ると、恐怖の悲鳴を上げた。
彼は転がるように美咲の足元まで移動した。
骸骨の仮面をかぶった二人の人物が、幽霊のように角に立っていた。二本の短剣が月光の下で
冷たい光を放っていた。
「お、お前ら、人、人間か、幽霊か?」道夫は美咲の助けを借りて立ち上がった。
美咲は震えながら彼の後ろに隠れた。
角にいた二人は目を合わせたが、目には何の波も立たなかった。瞬時に、短剣を取り出して二人に向かって突き刺した。
美咲と道夫は力もなく弱く、とても避けられなかった。二本の短剣は彼らの体に傷跡を残し、
悲鳴は祠堂を揺るがすほどだった。
ガタン!祠堂に祀られた位牌の一つが地面に落ち、悲鳴は突然止んだ。
*
ドボン!ドボン!
藤井沙織が夜中に息子を迎えに来た時、池を渡りかけたところでこの音を聞いて、驚いた。
錦鯉が夜中に遊んでいるのかと思い、側にいた執事が池の端に懐中電灯を向けた。
目の良い執事が叫んだ。「奥様、息子様です!表のお嬢様と一緒に」
歩きかけていた沙織は振り向いて見た。息子が自分で出てきていると思っていたが、池に浮かぶ二人を見て、悲鳴を上げて気を失った。