第4話:公衆の面前で
テレビスタジオの照明が結衣の顔を照らしていた。『愛のドキュメンタリー』の収録セット。カメラが三台、司会者が一人、そして観客席には五十人ほどの人々が座っている。
「本日のゲストは、理想の夫婦として話題の朽木怜さんと結衣さんです」
司会者の明るい声が響く。結衣は上品な微笑みを浮かべ、隣に座る怜の手を握り返した。
怜の手は温かく、しっかりと結衣の指を包んでいる。カメラの前では完璧な夫だった。
「お二人の愛情の深さは業界でも有名ですが、秘訣は何でしょうか?」
「結衣を大切にすることです」
怜は結衣を見つめながら答えた。その瞳には愛情が宿っている。観客席からは感嘆の声が漏れた。
だが結衣には分かっていた。これもまた、演技なのだと。
「素晴らしいですね。では、奥様はいかがですか?」
「夫を信じることです」
結衣の声は穏やかだった。皮肉にも、それは真実だった。彼女は怜を信じ続けていた。裏切られるまで。
その時、スタジオの隅で大きな音がした。
フラワースタンドが倒れ、色とりどりの花が床に散らばる。スタッフの一人——蛇喰魅音が慌てふためいていた。
「すみません!すみません!」
魅音の上司であるマネージャーが駆け寄る。
「何をやってるんだ!生放送だぞ!」
マネージャーの怒声がスタジオに響いた。魅音は涙を浮かべながら謝罪を繰り返している。
その瞬間、怜の手が結衣から離れた。
「ちょっと待ってください」
怜は立ち上がり、マネージャーの前に割って入った。
「部下の失態は上司の責任でもある。だが、君のような人間に彼女を任せておくわけにはいかない」
怜の声は低く、威圧的だった。
「君はクビだ」
観客席がざわめいた。カメラが怜と魅音を交互に映し出す。結衣は座ったまま、周囲の視線が自分と魅音の間を行き来するのを感じていた。
上品な微笑みを崩すわけにはいかない。公の場なのだから。
だが、心の奥で何かが軋んでいた。
――
「申し訳ございませんでした。収録を再開させていただきます」
司会者が場を取り繕い、インタビューが続行された。だが怜の集中は明らかに欠けていた。視線が時折、スタジオの隅にいる魅音に向けられる。
「ところで、お二人の結婚記念日はいつでしたっけ?」
司会者の何気ない質問に、怜が答える。
「四月十五日です」
結衣の心臓が止まりそうになった。
彼らの結婚記念日は五月二十三日。四月十五日は——魅音との記念日だった。
「あら、先ほどの資料では五月二十三日となっていましたが」
司会者が困惑した表情を浮かべる。怜の顔が青ざめた。
「あ、それは……」
怜は慌てて結衣を見つめる。
「結衣が言ったんだ。あまりに幸せすぎて、毎日が新婚のようだって」
嘘だった。結衣はそんなことを言ったことはない。
だが彼女は微笑んだ。
「そうですね。毎日が特別な日のようで」
観客席から温かい拍手が起こった。
――
番組の最終コーナー。花のアーチが用意され、怜が結衣を背負ってくぐる演出が始まった。
「愛の象徴として、ご主人が奥様をお姫様抱っこで花のアーチをくぐります」
怜は結衣を背負い上げた。結衣の体が宙に浮く。
「重くない?」
「君なら何キロでも軽いよ」
かつて魅音にかけた言葉と同じセリフ。結衣の胸が締め付けられた。
花のアーチに向かって歩き始める怜。カメラが二人を追いかける。
その時だった。
「きゃあ!」
近くにいた魅音が突然倒れた。顔面蒼白で、呼吸が荒い。
怜の足が止まった。
「魅音!」
次の瞬間、結衣の体が宙を舞った。
怜は背負っていた結衣を放り出し、地面に落とした。結衣の膝が床に激突し、鋭い痛みが走る。
だが怜は振り返らなかった。
魅音を横抱きにし、スタジオから走り去っていく。
「救急車を!」
怜の声が遠ざかっていく。
結衣は床に座り込んだまま、呆然としていた。膝から血が流れているが、痛みを感じない。
カメラが結衣の姿を映し続けている。乱れた髪、血の滲む膝、一人取り残された妻の姿を。
観客席が静まり返った。
司会者が慌てて結衣に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
結衣は顔を上げ、微笑んだ。
「はい。夫は正しい判断をしました」
その声は、驚くほど平静だった。
――
病院の廊下を結衣は歩いていた。膝の傷は簡単な処置で済んだ。看護師に魅音の病室を聞き、その前まで来た。
ドアが少し開いている。中から声が聞こえてきた。
「『愛のドキュメンタリー』を台無しにしないで」
魅音の泣き声。
「大丈夫だ。番組出演は会社の宣伝と提携のためだから、多少のハプニングは問題ない」
怜の声が優しく響く。
「でも、私……あなたの奥さんの前で恥をかいて」
「何を言ってる。君は全部を俺にくれたんだ。俺は君に人前で言えない立場しか与えられないのに」
怜の声が更に優しくなった。
「辛い思いをさせてすまなかった」
結衣の視界が揺れた。
ドアの隙間から見える怜の手が、魅音の頭を優しく撫でている。
結衣は壁に背中を預け、ゆっくりと床に座り込んだ。
すべてが終わった。
希望という名の最後の糸が、今、完全に切れた。
――
夜遅く、怜が帰宅した。結衣はソファに座り、テレビを見ていた。
「結衣……」
怜が近づいてくる。その時、結衣の膝の包帯に気づいた。
「怪我をしていたのか!」
怜は慌てて結衣を抱きしめた。
「すまない。本当にすまない」
謝罪の言葉。だが、それは空虚に響いた。
「罰として、俺が料理をする。結衣の好きな小皿料理を作るよ」
怜はキッチンに向かった。包丁の音が響く。
結衣は無表情でその背中を見つめていた。
――
翌朝、玄関のチャイムが鳴った。
家政婦の桜井が立っている。いつもと違い、エプロンを持っていない。
「奥様、お疲れさまでした」
桜井は深く頭を下げた。
「今日で辞めさせていただきます」
結衣は桜井を見つめた。
「どうして?」
「旦那様が……『桜井さんの料理を毎日食べるのは簡単だよ』と、どなたかにお約束されたようで」
桜井の声は静かだった。
「私がいては、旦那様が困ってしまいます」
結衣は何も言えなかった。
桜井が去った後、結衣は一人でリビングに立っていた。
家政婦も去り、夫の愛情も偽物で、自分の存在価値も無に等しい。
すべてが崩れ落ちていく。
結衣は窓の外を見つめた。
二週間後、港で待っている人がいる。
その時まで——
結衣の唇が、かすかに動いた。