第5話:偽りの愛の誓い
二階の寝室で、葵は窓の外を見つめていた。夜の庭に咲く薔薇が、月光に照らされて白く浮かび上がっている。
「葵」
背後から零司の声がした。振り返ると、夫が心配そうな表情でこちらを見ている。
「最近、部屋に閉じこもってばかりだな。俺が診療に付き添えなかったから、怒ってるのか?」
葵は首を振った。零司の顔を見上げると、その唇の端に薄っすらと口紅の跡が残っているのが見えた。ついさっきまで依恋と一緒にいた証拠。
「怒ってなんかいないわ」
「本当か?」
零司は葵の頬に手を伸ばした。その指先が肌に触れる瞬間、葵の胸に冷たい嫌悪感が走る。この手が、つい先ほどまで別の女の肌を愛撫していたのだ。
だが表情には出さない。
「ええ、本当よ」
葵は零司の顔に手を伸ばし、そっと頬を撫でた。かつて愛した少年の面影は確かにそこにある。だが心は、もう完全に変わってしまった。
愛していた人は、もうここにはいない。
その時だった。
パン、パン、パン――
外から花火の音が響いてきた。
「あ、花火だ」
葵がつぶやくと、零司は慌てたように窓に近づいた。
「ああ、そうだな。綺麗だろうな」
その声に、微かな動揺が混じっている。
遠くから、聞こえてきた。
芝生の上で、蒼が依恋の耳元に叫ぶ。
「見て、見て!これはパパが依恋おばさんのために用意したんだよ!妹が生まれるお祝いだって」
葵の心臓が止まった。
愛人の妊娠を祝う花火。夫が、息子と一緒に、別の女のために打ち上げた祝砲。
「花火が見たかった」
葵の口から、皮肉な言葉が漏れた。
零司は振り返ると、葵を強く抱きしめた。
「葵の目が治ったら、三日三晩花火を上げてやる。約束する」
その声は情熱的だった。だが葵は知っている。零司が夜毎に階下の愛人の元へ向かうことを。この腕が、毎晩別の女を抱いていることを。
「俺は葵を愛してる。葵がいなきゃダメなんだって」
零司の声が震えている。まるで自分に言い聞かせるように。
葵は微笑んだ。
「私も愛してるわ、零司さん」
嘘だった。だがこの嘘こそが、葵の最後の武器だった。
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翌朝、葵がベッドで横になっていると、零司と蒼が部屋に入ってきた。
「葵、気分転換にパーティーに行かないか?」
零司の提案に、葵は首をかしげた。
「パーティー?」
「ああ、友人の家でね。君にも外の空気を吸ってもらいたいんだ」
葵の返事を待たずに、零司はクローゼットからドレスを取り出し始めた。深紅のイブニングドレス、ダイヤモンドのネックレス。
「お母さん、綺麗になるよ」
蒼が無邪気に笑いかける。その笑顔に、葵の胸が締め付けられた。
息子は何も知らない。父親の裏切りも、母親の絶望も。
車に乗せられ、葵は後部座席に座った。蒼が隣で幼稚園の話をしている。
「今度の発表会でね、僕が王子様の役をやるんだ。依恋おばさんが衣装を作ってくれるって」
無邪気な声が、葵の心を刺す。
車は住宅街を抜け、やがて高級住宅地へと入っていく。そして、ある豪邸の前で停まった。
「着いたぞ」
零司が車を降り、葵の手を取った。
葵が豪邸の玄関に足を向けた瞬間――
目の前に、信じられない光景が広がった。
煌びやかなゴールドのドレスをまとい、妊娠したお腹を誇らしげに撫でながら、パーティーの中心に立つ女性がいた。
依恋だった。
まるで女主人のように、ゲストたちに囲まれ、祝福を受けている。
葵の世界が、音もなく崩れ落ちた。