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夏の朝の陽ざしがカーテンの隙間から差し込んで、ちょうど私のまぶたを直撃した。けれど身体が鉛みたいに重くて、とてもじゃないけど起き上がる気になれない。
私はごろんと寝返りを打って、光を背中に受ける体勢になり、もう少しだけ寝ようと目を閉じた。
突然、シャッターの音がして、夢の続きを無惨に打ち切られる。
「和也……やめてよ……」
いつものことだと思って、隣にいるはずの男の背中をぽん、と軽く叩く。
どうせまた、私の寝顔でもこっそり撮っているんだろう――そう思って。
その瞬間、ふいに肩口がすうっと冷えた。
すぐ後に、女のあざけるような声が降ってくる。
「和也お兄さん、見てくださいよ。あの人、別の男を触ってる。気持ち悪〜い」
この声……。
眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
私はがばっと上体を起こし、ようやく目を見開く。
目の前には、怒気をまとった大路和也(おおじ・かずや)の顔。
「和也……?詩織……?どういうこと……?」
私は固まった。
和也がベッドの前に立っていて――
じゃあ、私のすぐ横で寝ているこの男は誰?
「社長、僕が悪かったです!どうか許してください!奥さまのほうから誘ってきたんです。全部、奥さまが先に手を出して――!」
私が振り向いて相手の顔を確かめるより早く、その男はベッドから飛び降り、床にひざまずいて土下座を始めた。額を床に打ちつける音が、ドン、ドンと部屋に響く。
でも、和也は許す気なんてこれっぽっちもない。
無言で足を上げ、その男を横っ腹めがけて蹴り飛ばした。
男は胸を押さえてうめき声をあげ、口の端から血をにじませる。
それでもまた、ずるずると這って和也の足元へにじり寄り、命乞いを続けた。
「出て行け!」
和也の怒鳴り声は、天井が崩れ落ちるんじゃないかと思うほどの迫力だった。
赦免を言い渡された囚人みたいに、男は転がるように部屋から逃げ出していく。シャツもズボンもろくに身に着けないまま。
「浮気の代償は、宮崎美咲(みやざき・みさき)、おまえが払える額じゃない」
和也は私を見下ろし、冷ややかな視線を突き刺してきた。その瞳の奥には、ぐつぐつと煮えたぎる憎しみと決別の色しかない。
「違う、和也、聞いて。これは――」
ようやく頭の中の霧が晴れ、状況を理解した私は、あわてて彼の手をつかんで必死に訴えた。
「目で見たものがすべてだ。俺は、自分の目を信じる。……ここ数年、おまえを甘やかしすぎた。俺の“やり方”を、おまえは忘れたらしいな」
「今日から、おまえは地獄で生きることになる」
わずかに身を屈め、耳元でささやく声は、氷点下の冬より冷たかった。和也は私の手を乱暴に振り払う。
その目には、もう一片の愛情も残っていなかった。
「詩織、行くぞ」
「はい!」
山本詩織(やまもと・しおり)は嬉しそうに返事をし、スキップでもしそうな軽い足取りで彼のあとを追う。
出て行く前、彼女の瞳に浮かんでいたのは、あざけりと“勝者”の自信だった。
――この女だ。
そこでようやく、私はすべてを理解した。
昨夜、彼女から「和也お兄さんがバーで泥酔してるから、迎えに行ってあげて」と電話がきたところから、もう罠は始まっていたのだ。
あのとき飲んだ、ただの一杯の冷たい水。あれでどうして、今朝まで身体が鉛みたいに重くなっていたのか。
私は、本気で信じてしまっていた。
詩織がやっと諦めて、カズヤへの想いを断ち切ったんだと。結果はこれだ。見事に嵌められた。
私は自分の頬を思い切り平手で打った。――山本詩織を信じるなんて、どれだけ愚かなんだろう。
たった二年じゃ、この女の本性を見抜くには全然足りなかったらしい。
スマホが鳴った。
「もしもし、お父さん?」胸の奥に、いやな予感が広がる。
『美咲、お母さんが倒れた。す平和病院に――』
通話はそこでぷつりと切れ、スマホが手からするりと滑り落ちた。
頭の中で、何かが爆ぜたような音がする。私はあわてて服をかき集めて身にまとい、ホテルを飛び出した。
耳の奥でぐるぐると反芻されるのは、さっきの悪魔のような声。
――今日から、おまえは地獄で生きることになる。
こんなに早く、その“地獄”が始まるなんて。
平和病院。
廊下のベンチに座る父は、顔中を深い皺でくしゃくしゃにしていた。一晩で二十歳は老け込んでしまったみたいだ。
病室のベッドには母が横たわっている。すでに意識は戻っているようで、ひとまず命に別状はなさそう――そのことに、私は心底ほっとした。
「美咲……。誰かが裏で操作している。宮崎グループの株価が一気に暴落して、このままだと会社は破産だ。おまえから和也くんに頼んでくれないか。どうにか助けてもらえないか……」
父が縋りつくように私の手をつかむ。
「お父さん、もう彼のところへ行く必要はないの。この件を仕掛けた張本人は――カズヤだわ」
唇を噛みしめながら、私は震える声でそう告げた。
「なんだって!」
父は絶句し、そのまま苦しげに胸を押さえると、がくりと床に崩れ落ちた。
「お父さん!」
私はパニックになりながらナースコールを押し続け、医師と看護師たちが駆けつけてくる。
ほどなくして、父は手術室へと運び込まれていった。