俊彦はすでに彼女のこのような冷淡な様子に慣れていた。彼は颯爽と高台から身を翻して降り、真っ直ぐに石のテーブルへ歩み寄った。テーブルの上には香料の箱が置かれていた。
俊彦は苦笑した。まさかこの俺が、人を口説こうとして、顔も体も通じず、最後にはたった一箱の香料に負けるとはな。
「君がこれに興味を持ってるのは知ってる。香料の秘伝書だ」俊彦は長くしなやかな指で薄い紙片を摘み、気まぐれに笑った。その横顔はまるで絵のように美しかった。
凪紗は知識に飢えていた。俊彦は、そこが彼女の弱点だと知っている。琥珀色の瞳が一瞬で輝きを増し、彼を見た時よりもずっと明るく、驚くほど美しかった。無表情だった顔立ちが、その瞬間だけ生き返ったように見えた。
そう思うと、俊彦は思わず頭を抱えた。情けない話だ。
「いくら?」凪紗は限定版のブラックカードを取り出した。残高は、事実上「無限」。
「いらないよ。それは、君があの時助けてくれたお礼だと思ってくれ。」
「でも、あの時は……」
俊彦は気怠げに石のテーブルを指で軽く叩き、目をわずかに上げた。「この秘伝は、世界に1枚しかない。本当にいらないのか?」
凪紗は思わず軽く喉を鳴らした。
男は価値の計り知れない宝を弄びながら、気怠そうに言った。「欲しいならそのまま取れ。いらないなら、燃やすだけだ。」
「……」凪紗は、彼が口にしたことは必ず実行する男だと知っていた。
価値が計り知れない秘伝も、結城若様にとってはただの遊び。限定なら限定で構わない。そんな男だった。
しかし凪紗にとって、それは命取りだった。
彼女はその秘伝をじっと見つめ、内心で激しく葛藤していた。
短い沈黙のあと、彼女は静かに言った。「……いいわ。」
俊彦はふっと笑った。「隣としての挨拶代わりだ。」
彼女がそれを受け取ったのを見て、俊彦は内心ほっとした。あの日、誰かが贈った4億円のピアノは、結局彼女の手には渡らなかったのだから。
だが、彼はふと目を伏せて呟いた。「……あの日、ピアノを贈ったのは誰だ?」
「あなたには、関係ない。」
俊彦は手を広げ、それ以上追及しないことを示した。
小さいくせに、なかなか気が強い。
彼女を怒らせてはいけない。
彼女に言い返されても、俊彦は口の端をわずかに上げただけだった。この少女には、まだまだ秘密がある。そう感じた瞬間、胸の奥が少し弾んだ。
少し離れた大木の陰、全身を迷彩で覆った人物が声を潜めて通話していた。「結城様が燕の都に入りました。どうやら、女を追っているようです。」
電話口からは、氷のように冷たい男の声が響いた。「放っておけ。ただし、警戒は怠るな。異常があればすぐに報告しろ。」
一方、俊彦のところでは、凪紗はすでに去り、彼の傍らには頭を下げた人物が立っていた。
「若様、あの連中がまた後をつけていますが……どうなさいますか?」
「構わない」俊彦の整った高貴な顔立ちは影に隠れ、さらに謎めいた美しさを増していた。彼は怠惰げに目を上げた。
「ドンッ」投げ放たれた一本のダーツが後方の的の中心を正確に貫き、5メートル先の高級陶磁器が、一瞬で粉々に砕け散った。
*
夜も更け、露が濃くなったが、詩織はまだ書斎で仕事を続けていた。夫は出張中、会社には案件が山のように積み上がっている。長男も支社勤務のため、娘と過ごす時間を増やすには、夜遅くまで働くしかなかった。
こめかみをさすりながらも、失われていた娘を取り戻したことを思うと、彼女の顔にはまた安堵の笑みが浮かんだ。仕事を続けようとした時、突然ガラス板の上に置いた携帯電話が激しく振動し、眠気が一気に飛んだ。
目を落とすと、表示されたのは、あの番号。詩織は唇をきゅっと結び、瞳の色が一瞬で鋭く変わった。