どんな宿題のことを言っているのか、詩織自身にもさっぱり分からなかった。
未来から戻ってきた身としては、当時の先生がどんな課題を出したのかなんて覚えているわけがない。正直なところ――今夜から勉強をやり直さないと、明日の授業すらついていけないだろう。
大学を卒業してもう二年。
覚えた知識のほとんどはきれいさっぱり抜け落ちている。
今の頭で受験なんてしたら……言うまでもない、見事に玉砕だ。
下手したら、前よりもひどい点数を取るかもしれない。
「な、なに言ったの?」
一瞬、状況が飲み込めなかったのか、天海が目を瞬かせる。
「言ったでしょ。宿題は破ったの。これからは自分でやりなさい」――ずっと言いたかった言葉だ。でも昔の詩織には勇気がなかった。
長い付き合いの同級生ということもあり、いつも我慢していた。
だが今は違う。胸の奥がすっと晴れて、ようやく息ができた気がした。
「夏目詩織、あんた……!」
天海が目を見開き、ようやく詩織の言葉の意味を理解した。
「『あんた』じゃない。宿題は自分でやるものよ。――もう、私は二度と手伝わないから」
そう言い捨てて、詩織はくるりと背を向けた。光に照らされたその背中は、どこか凛としていて、これまでとは違って見えた。
――これからは、誰かの顔色をうかがう自分でいるつもりはない。
新しい人生。新しい高校生活。
夏目詩織は、もう過去の自分には戻らない。
気弱で、言い返すことすらできなかったあの詩織は、今この瞬間をもって――完全に消えた。その代わりに立っているのは、七年後の記憶を持つ新しい詩織。
前の人生で、流されるまま生きてきて、もう疲れ果てていた。
だからこそ今度こそ、何かを変えたい。
そうでなければ、自分自身に顔向けできない。
唖然としたままの天海は、しばらく口を開けたまま立ち尽くしていた。
――どういうこと?
いつもなら宿題を要求すれば、すぐに笑顔で差し出してきたのに。今日の詩織は、まるで別人のようだ。
夏目詩織といえば、クラスでは「お人好し」の代名詞。
紅葉と顔を合わせたときだけは怒りを爆発させるが、それ以外では誰にでも優しく、要するに「いじられキャラ」だった。
しかも体が弱く、よく入院するせいで「病弱娘」なんてあだ名までついていた。
どこの高校にも、いじめる側といじめられる側は存在する。
詩織は間違いなく後者だった。
昔の彼女は、反抗することを知らなかった。
少しぐらい嫌なことをされても、「まあ、いいか」と笑ってやり過ごしていた。
――もしかしたら、そうすることで友達を得られると思っていたのかもしれない。
そんな卑屈な優しさこそが、彼女の人間関係のすべてだった。
その頃、店の窓から通りを眺めていた彰人は、小さくため息を漏らした。
「……本当に、厄介な子だ。」
そう呟いて肩をすくめると、再びデスクの書類に視線を落とした。今日という日は、どうにも集中力が続かない。
家に戻った詩織は、簡単に夕食を済ませるとすぐに部屋へ引きこもった。
両親――夏目夫妻は、特に何も聞かなかった。
ただ「外はもう冷えるから、風邪ひかないように」と一言だけ。
部屋に戻った詩織は、まず例の玉環を取り出した。
何度見ても、結果は同じ。白い光の粒が淡く浮かぶだけで、それ以上の変化はない。
「……やっぱり、すぐには分からないか」
ため息をついて首にかけ、肌に触れる位置でそっと収める。そのあと、机の横に置いた学生鞄を手に取った。
――勉強。
それは今の詩織にとって、最大の難関だった。
外で近藤天海と遭遇しなければ、自分がまだ高校二年生だったことすら忘れていたかもしれない。
来年には「運命の分かれ道」――大学入試が待っている。
「……やるしかないか。」
夜は長い。少しでも思い出さなければ、明日の授業が地獄になる。
そのとき、ドアがノックされた。「詩織、もう遅いんだから、そろそろ休みなさいよ」
母の優しい声とともに、温かい牛乳の香りが漂う。
「大丈夫、お母さん。ちょっとだけ復習しておきたいの。入院してる間、ずっと勉強できなかったし。来年は受験だから、今度こそいい大学に行きたいの」
――それは、前の人生でも密かに抱いていた夢だった。
ただ、口に出したのはこれが初めて。
昔の詩織は、勉強すると言いつつ、机の下ではいつも小説を読んでいた。
「この本を読み終えたら、ちゃんと勉強しよう」
――そう言いながら、読み終えた翌日にはまた新しい本を買っていた。
結局、勉強しているふりだけは誰よりもうまくなった。
あの頃、三流大学に滑り込めたのは、運がよかっただけ。
「『生まれつき勉強の才能がない』なんて言い訳、信じるわけないでしょ。バカじゃあるまいし、本気で努力すれば成績なんて上がるに決まってるじゃない。
それに、わたし文系なんだからね。文科は……暗記勝負よ!」気合を入れ直しながら、詩織は自分に言い聞かせた。
さらに言えば、彼女は普通の文系受験生とは違う――芸術系の推薦枠がある。
専門科目をクリアして、文系の点数を少し上げるだけで、四百点台でも一流大学に入れるのだ。
「よし……大学合格!自分の価値を上げるの!」
机に拳を軽く叩いて、詩織は自分を鼓舞した。
二度目の人生、まずは受験で結果を残す――それが最初の目標だった。
30分後……
「……ああ、神様。お願い、もう一度だけ死なせて……」
机の上に突っ伏し、詩織は髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
目の前の歴史の教科書。ページを開けば開くほど、文字がただの黒い模様にしか見えない。
転生したって、万能じゃない。
過去の知識がすべて頭に残ると思ったのは、ただの幻想だった。
「うぅ……どうして入らないのよ……!」
声にならない悲鳴。
すぐそこに期末試験が迫っているのに、頭はまるで働かない。
「いけない、こんなことで負けてられない……!」そう自分に言い聞かせながらも、焦りばかりが募る。
社会人として七年も生きてきたのに、たかが十七歳の子たちに負けるなんて――ありえない!
「そうだ、期末試験……たしか範囲を知ってたはず!」
ひらめいたと思った瞬間、詩織は再び頭を抱えた。
……思い出せない。七年も経てば、そんなこと全部忘れる。
いや、それどころか――大学入試で出た問題すら、作文のテーマしか覚えていない。
転生が万能だなんて誰が言ったのだろう。見るに堪えない。詩織は自分が大学に入れるかどうかさえ疑い始めた。
「転生って……こんな不便なシステムだったの?」
現実の冷たさに、詩織は乾いた笑いを漏らした。
万能チートどころか、ただの記憶喪失者だ。
このままじゃ、前の人生より落ちぶれる未来しか見えない。
「詩織、もう寝なさい。無理しないで」
廊下の向こうから、母の優しい声が聞こえた。ドアを開けると、机にしがみついたままの娘の姿に、母は小さく眉を寄せる。
「お母さん、大丈夫」詩織は無理に笑ってみせた。
――「全然理解できない」なんて、絶対言えない。
歴史の流れならざっくりは覚えている。
でも、試験に必要なのは「ざっくり」じゃなくて、正確な年号と出来事。
「分かったわ。でも、夜更かしはだめよ。明日も学校があるでしょ」母は苦笑しながら、そっとドアを閉めた。
「はい、分かってる」
静まり返った部屋に、ページをめくる音だけが響く。
廊下の外では、夏目夫妻が目を合わせ、同じように小さくため息をついた。