さっき遠藤千尋の名前を聞いた時、七海も思わず目を丸くした。あの一家はもう大都市へ引っ越したと聞いていたのに――まさか、戻ってくるなんて。
とはいえ、他人の家庭の話を本人の前でするような人ではない。
この辺りの住宅街は狭いけれど、情報は早い。少し尋ねれば、誰が何をしているのか、すぐにわかってしまうのだ。
どうやら遠藤千尋の一家は、かつて一度大きく当てたらしい。
遠藤千尋の父親が賭け石で悪い翡翠を切り出し、その場で一億円で売れたのだという。一億円――一家が一生遊んで暮らせるほどの金額だ。だが、それが悲劇の始まりだった。
「宝石でそんなに儲かるなら」と、彼らはその金をすべて再び賭け石につぎ込んだ。
けれど、素人が博打に勝てるわけがない。結果は火を見るより明らか――一億円は跡形もなく消えた。
可哀想な話だった。
七海は食卓の話題のひとつとして口にしただけで、特に気にも留めなかった。だが、詩織は違った。その話を聞いた瞬間、心臓が一瞬止まったように感じたのだ。
遠藤千尋が自分の前世でどんな人間だったか――詩織ほど知っている者はいない。
賭け石の失敗で一家が没落したあと、遠藤千尋は世間の好奇の目に耐えられず、大学を卒業してすぐに宝石業界に足を踏み入れた。
けれど、宝石の世界は甘くない。営業としてならまだしも、業界で頭角を現すには天才的な才能か、あるいは強力なコネが必要だ。
遠藤千尋には、どちらもなかった。
失敗を繰り返した末、彼女は自分で翡翠専門店を開いた――
問題は、その店のやり方だった。
翡翠とそっくりの石は世の中にいくらでもある。
たとえば、軟玉。その緑の色味は瓜青翡翠にそっくりだ。
あるいは緑玉髄を翡翠として売る。そんな詐欺まがいの商売が後を絶たない。
千尋の店もまさにそれだった。
似たような石を翡翠として売りつけたり、品質の低い翡翠を高級品だと偽ったり。専門家でもない限り、見抜けない。
しかも「翡翠」と聞くだけで高級そうに思える。多くの客は、品質の差など知らない。
詩織は何度も止めようとした。
「そんなやり方じゃ、いつか捕まる」と忠告した。だが、彼女は聞かなかった。二人の関係は次第に冷えていった。
再会したのは数年後、宝石の展示会だった。観客として来ていた詩織の前に、ブースの中で笑顔を浮かべる千尋がいた。
ガラスケースの中に並ぶ「翡翠」を見た瞬間、詩織の胸は痛んだ。
ある日、ついに我慢できずに言ってしまった。
――「このままなら、警察に通報するから」
千尋を守りたい気持ちより、もう止めなければという焦りが勝った。
そして……それが「事件」の前日だったのだ。
花瓶が頭上から落ちてきた、あの日の前日。
(……あれは、やっぱり千尋だったの?)
背筋がぞくりと震えた。屋上から見た、あの顔――あれは幻じゃなかった。
「お母さん、ちょっと疲れたから、少し休むね。千尋が来たら、今日は遠慮するって伝えて」
声を落ち着けようとしたが、喉の奥が震えていた。
(あんなに仲の良かった子が……私を殺すなんて)
(どうして。どうしてそこまで――?)
それとも、大人になれば利益が最優先になるということなのか?
母さんは首を傾げた。
「わかったわ。ゆっくり休みなさい」
以前なら、千尋が来ると聞くだけで娘は嬉しそうにしていた。
だが今日の詩織の反応は明らかに違う。
実のところ、彼女は遠藤千尋をあまり好ましく思っていなかった。
だが、娘にとって唯一の友人だったから、口を出さなかっただけだ。
その後、両親の会話も耳に入らなかった。
詩織の頭の中は遠藤千尋のことだけでいっぱいだった。
幼い頃からの唯一の友人として、千尋は詩織の心の中で大きな存在だった。初恋の頃も、仕事を始めてからも、何かあるたびに電話をかけて話していた。ほとんどは詩織が千尋に仕事を変えるよう忠告するものだったが。(なのに、どうして――)
食事を終えたあとも気持ちは晴れず、詩織は沈んだ顔のまま部屋に戻った。
そんな明らかな変化を、両親は見逃すはずがない。二人は視線を交わしたが、何も言わなかった。
娘が話したくないことを、無理に聞き出すような親ではない。
どうしても自分では解決できない時が来たら、その時こそ手を差し伸べる――それがこの家のやり方だった。
夏目家の教育方針は、自由で穏やかだ。娘を放任することもなければ、縛りつけることもない。
本当は、詩織は食後に玉石市場へ出かけるつもりだった。
自分の玉だけが特別なのか、それとも他の石にも同じ現象が起こるのか――確かめてみたかったのだ。
けれど、遠藤千尋のことを思い出すと、胸の奥の興奮は一瞬でしぼんでしまった。
もし、本当に彼女が犯人だったのなら――
長年の友情は、もう完全に終わりだ。
自分を傷つけた相手を、再び受け入れる人間なんていない。詩織も例外ではなかった。
とはいえ、彼女はいつまでも暗闇に閉じこもるようなタイプではない。しばらくは会いたくもないだろうが、時間が経てば、また前を向ける――そう信じていた。
復讐?
それは……心が落ち着いてからでいい。
殺すなんてことはしない。
けれど、何もなかったことにはしない。
せめて、前の人生で死んだ自分に報いるために、あの女には代償を払わせる。
そう決めて、詩織は午後いっぱい気持ちを整理した。夕方になるころには、肩の力も抜けていた。
「お父さん、お母さん、ちょっと出かけてくるね。夕飯は取っておいて」
千尋の件に決着がついたので、詩織は突然、まだやるべきことがあると思い出した。
自分に異能があるかもしれないと考えると、先ほど抑えていた興奮がまた湧き上がってきた。
「うん、気をつけて。早く帰るのよ」
リビングに顔を出した娘の表情が穏やかだったので、凌軒と木雲はほっとした。
きっと、悩んでいたことにも答えが出たのだろう。外に出て気分転換をするのも悪くない。
詩織は二人に軽く手を振り、小さなショルダーバッグを背負って家を出た。
名古屋――この町は広くもなく、狭くもない。バスを乗り継いで三十分、ようやく目的地にたどり着く。
そこはオープンしたばかりの大型商業ビルで、宝石店や雑貨店がずらりと並んでいた。新しいながらも評判は上々で、開店前から話題になっていた場所だ。
詩織がこのビルを選んだ理由は単純だった。
ここなら、まだ露骨な詐欺を働くような業者はいない。
七年後のように、偽物を本物と堂々と売るような時代ではない。
名古屋にも骨董市やフリーマーケットはある。
だが、ああいう玉石混淆の場所で本物を掘り当てるには、運と勘が必要だ。
詩織は運に頼るつもりはなかった。
白いシャツに九分丈のパンツ、スニーカー。髪は後ろで高く結び、軽やかに跳ねるポニーテール。
夏目詩織は、そんな爽やかな姿で「立川ジュエリー」のガラス扉を押し開けた。