「最高の小児科医を呼んで来い!」
執事は額の冷や汗を拭いながら、小川家に大きな変化が訪れていることに気づいた。
「かしこまりました、若旦那様」
執事が立ち去った。
宏樹は使用人に、今日の監視映像を出すよう命じた。
美優はその言葉を聞いて慌て出し、哀れっぽい表情で智也を見つめた。
「兄さんたち、どうしてみんな美優のことを信じてくれないの?」
「美優は嘘なんかついてないの」
そう言いながら涙が頬を伝って流れ落ちた。
この姿は見ているだけで可哀想になるほどだった。
しかし宏樹はその表情を見ても目障りに感じるだけだ。
前世で詩織も最初は泣きながら彼に説明していたが、その後何も答えなかった。
確かに美優は偽りの令嬢だったが、彼女が涙を流すと、小川家全体が総出で動いた。
その一方で、本物の令嬢である詩織は脇に追いやられ、無視されていた。
智也は美優の涙を優しく拭き、生まれて初めて兄にひどく反論した。
「兄さん、何を勘違いしているのか知らないが、こんなに酷いことをする必要はないぞ?」
「美優がそんな人のはずがない」
「監視カメラを調べるなんて、美優を信用していないというようなもんじゃない」
「こんなことをしたら、美優はこれからどんな顔をして小川家に過ごすというんだ」
智也はいつも兄を敬っていた。
特に複雑な理由はない。かつて小川家が破産の危機に瀕したときの記憶だったからだ。
わずか18歳の宏樹が一人の力で小川家全体の難題を解決してくれた。
しかも今日の地位になるまで一族を導いたからだった。
だから智也は自分の兄を心から尊敬している。
「俺が彼女に小川家にいてくれとか頼んでないよな?嫌なら出て行けばいい!」
今の宏樹は美優に対して全く容赦がない。
その冷酷さは、腕の中にいる詩織をも驚かせるほどだった。
これは本当に演技なのだろうか?
宏樹はいつも美優の涙を見ると切なくなるのに。
今日はどうしたのだろう?
なぜ自分のために公正を求め、美優の気持ちを無視できるのだろう?
逆の視点から考えたらなおさらおかしくなる。
なぜ宏樹が自分のために公正を求めるのだろう。
もしかして宏樹も前世の記憶を持って蘇ったのだろうか?
詩織はまばたきすると、長い睫毛が影を落とした。
それで彼女は表情は読み取れなくなった。
美優はやはり涙を利用してこの全てを止めようとしている。
しかし宏樹は全く反応を示さなかった。
使用人はすぐにノートパソコンを持ってきて監視映像を表示した。
「いつ無くなったんだ?」
智也は兄の冷たい視線に思わず答えた。
「午前10時だった」
それを聞いた宏樹は無言のままジェスチャーで使用人に指示を出した。
すると使用人はすぐにその時間帯の映像まで飛ばした。
全員もパソコン画面からはっきりと見えた。
クローゼットルームに入ったのは美優だけだった。
他に誰も入らなかった。
使用人でさえも。
美優は部屋に入るとすぐにティアラに向かった。
彼女はテーブルにきちんと置かれていた王冠を手に取り、靴箱に隠した。
それから満足げに出て行った時の様子も映っていた。
もう先を見る必要はない。
真実は明らかだ。
しかし詩織はその場面を見ても、わずかに嘲笑うしかなかった。
彼女にとっては予想通りのことでしかないからだ。
以前、彼女は美優に何度も傷つけられた。
でも彼女がどう説明しても、誰も彼女を信じなかった。
次第に彼女は無感覚になり、自分を弁解することもなくなった。
誰も彼女を信じてくれないのを、とっくに理解したからだ。
だったら、不要な口数を減らした方がましだった。
宏樹の顔は凍りつき、周囲の空気は一瞬で冷え込んだ。
使用人たちは皆頭を下げ、宏樹の顔色をうかがうことができなかった。
「美優!俺たちが何もかも与えてやった、なのに詩織を陥れてばっかり!」
「昔のことは大目に見てやってもいいが、今日のことだけは、絶対に代償を支払ってもらう!」
詩織はこの言葉を聞いて驚き、つい顔を上げた。
宏樹は本当に頭がおかしくなったのだろうか?
とはいえ、人に抱かれる感覚にはやはり慣れないものだ。
しかし宏樹はソファに座ったまま、彼女を降ろそうとしなかった。
美優は兄の怒りの恐ろしさをよく知っている。
だからその言葉を聞くと、すぐに智也の胸に逃げ込んだ。
彼女は震える体で呼びかけた。
「兄さん…」
それ以外に何も言えなかった。
なぜなら、この事件は確かに彼女が詩織を陥れるために計画したものだった。
彼女は詩織が許せなかった。
例え小川家の皆が詩織を大事にしていても。
彼女は詩織が永遠に消えてほしかった。
そうなれば小川家の娘は彼女一人になる。
智也はすぐにしゃがんで、美優の背中を優しく叩いて慰めた。
「美優、怖がらなくていいぞ。僕がついてるから」
「兄さん、悪い事は言わないが、今日のことは、女の子同士の冗談に過ぎないだろう。そこまで真剣になる必要があるのか?」
「父さんたちはホテルで待ってるんだぞ。いつまでこんな騒ぎを続けるつもり?」
宏樹は眉間をこすり、皮肉っぽい思いで弟を見つめた。
前世では彼も智也のように無条件に美優の味方をした。
そして詩織を何度も誤解していた。
そしてそんな智也の姿がまた目の前に現れた。
彼は昔の自分を思い出した。
そう思うと今すぐ自分を平手打ちにしたい気持ちになった。
「誕生パーティには行かない。俺は詩織と一緒に残る」
「今日は詩織の誕生日でもあるから」
宏樹はしばらく考えてから理由を思いついた。
それを聞いた智也は思わず大笑いした。
「兄さん、本当に頭がおかしくなったのね!」
「このガキの誕生日が俺たちに何の関係があるんだ?」
宏樹は鋭い視線を投げかけた。
「黙れ!」
「今後は詩織をそんな風に呼ぶな」
「それから、詩織に謝れ」
詩織は完全にあきれた。
宏樹が彼女のためにここまでするとは思ってもみなかった。
でもそれがどうしたというの?
彼女の心はもう傷だらけだ。
一回や二回の優しさくらいで許せるものではない。
小川家の人々に対して彼女の心には憎しみしか残っていない。
宏樹の言葉に、智也だけでなく、周りの使用人も信じられない表情を浮かべた。
「もう一度言わせるのか?」
「詩織に謝れ!」
「三度目は言わせるなよ」
しかし智也は強情に言い返した。
「宏樹!僕と君、いったいどっちが正気なんだ?」
「このガキに謝れだと?絶対にありえない」
「僕がこの3階から飛び降りても、このガキに謝ることだけはしないぞ」
「あいつは何様だ?僕が謝るなんて、そいつそんな資格はあるのか?」
美優は頭を下げたまま、頭が混乱した。朝までも優しかった兄が、なぜ午後になるとこんな態度になったの?
あのガキは兄に何をしたというの?
「結構だ」
宏樹は冷笑し、慎重に詩織をソファに下ろした。
「詩織、暫く横になってて。兄さんが躾けてくるから」
詩織は口を閉じたまま何も言わなかった。
宏樹が何をするのか、彼女も好奇心が湧いてきた。
宏樹は立ち上がり、何も言わずに智也に平手打ちをした。
「この一発は詩織の代わりだ」
「詩織がこれまで受けた苦しみは、お前が残りの人生をかけて償うことになる」
しかし智也はこの言葉の本当の意味を理解できなかった。
彼は右頬を押さえ、怒りに満ちた表情で兄を見つめた。
兄が自分を殴るとは信じられなかった。
普段の宏樹も冷たい表情だった。
しかし弟に対しては一応優しかった。
手を上げるどころか、口で叱ることさえなかった。
「謝れ!」
智也は周囲の視線の中で屈辱を感じた。
しかし彼も兄の性格をよく知っている。
今日の件で、このガキに謝らないとな。
さもないと、殴られただけでは済まないだろう。
「悪かった」
智也は非常に硬い口調で謝った。