第6話:汚れた翡翠
パーティー会場は華やかな装飾で彩られていた。本来なら刹那と暁の婚約を祝う場のはずなのに、招待客たちの視線は全て蝶子に向けられている。
「蝶子さん、そのドレス素敵ですね」
「妊娠中なのにこんなにお美しいなんて」
「暁さんがあんなに大切にされるのも分かります」
お世辞の言葉が次々と蝶子に向けられた。彼女は微笑みながら、時折お腹を撫でて見せる。
刹那は会場の隅で、その光景を静かに見つめていた。
暁は蝶子のそばから離れようとしない。椅子を引いてあげたり、飲み物を持ってきたり、まるで彼女が今日の主役であるかのように振る舞っている。
「蝶子ちゃん、疲れただろう?これを使ってくれ」
暁は限度額なしのブラックカードを蝶子の手に握らせた。
「暁さん、そんな......」
「遠慮しないでくれ。君は俺にとって大切な人なんだから」
招待客たちがざわめいた。
「やっぱり暁さんは蝶子さんに特別な感情を抱いているのね」
「八年も付き合った刹那さんより、蝶子さんの方を大切にしているみたい」
「でも仕方ないわよ。蝶子さんは暁さんの命の恩人なんだから」
その時、蝶子が立ち上がって優雅に微笑んだ。
「皆さん、実は私、暁さんとは長いお付き合いなんです。刹那さんが暁さんの最も辛い時期を五年間支えてくださったのは本当に感謝しています」
蝶子の言葉に、刹那の胸が締め付けられた。
五年間。車椅子生活だった暁を献身的に支えた日々。リハビリに付き添い、絶望に暮れる彼を励まし続けた歳月。
それを蝶子は「感謝している」と他人事のように語る。
「でも」蝶子が続けた。「私が暁さんの前に現れれば、暁さんが一番愛しているのはやっぱり私なんだから」
会場が静まり返った。
蝶子は刹那に近づいてきた。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「刹那さん、素敵なブレスレットですね」
蝶子の視線が刹那の手首に向けられた。そこには翡翠のブレスレットが輝いている。暁の母親から、未来の嫁へと贈られた大切なもの。
「それ、私にも似合うと思いませんか?」
蝶子は突然、刹那の手首を掴んだ。
「やめて」
刹那が抵抗しようとした瞬間、蝶子は力任せにブレスレットを引きちぎった。
「あら、外れちゃった」
蝶子は無邪気な表情を浮かべながら、ブレスレットを自分の口元に持っていく。
そして次の瞬間、信じられない光景が展開された。
蝶子は翡翠のブレスレットで自分の唇を強く擦り、わざと傷をつけたのだ。
「きゃあ!」
蝶子が突然悲鳴を上げた。涙を流しながら、震え声で叫ぶ。
「お義姉さん、どうして突然私の口にブレスレットを押し込むの?」
会場が騒然となった。招待客たちが一斉に刹那を見つめる。
「刹那さんが蝶子さんを?」
「まさか、嫉妬で?」
刹那は呆然と立ち尽くした。何が起こったのか理解できずにいる。
「刹那!」
暁の怒声が響いた。彼が駆け寄ってくる。
「何をしているんだ!」
刹那が反応する間もなく、暁が走り寄ってきて刹那を激しく突き飛ばした。刹那は体勢を崩し、そばにあった巨大な祝いのケーキが置かれたテーブルにぶつかって激しく転倒した。頭頂部の傷口が再び裂け、血が滲み出した。ケーキが刹那の体の上に滑り落ち、べたべたとした。
「蝶子ちゃん、大丈夫か?」
暁は倒れた刹那を一顧だにせず、蝶子のもとに駆け寄った。
「暁さん......」蝶子が涙声で呟く。「痛いです」
刹那はケーキまみれになりながら、ゆっくりと立ち上がった。床に落ちた翡翠のブレスレットを拾い上げる。
そして蝶子の前に歩み寄ると、無理やり彼女の手首にブレスレットをつけた。
「刹那、何をしている!」暁が咎めた。「それは夜神家の嫁だけがつけられるものだぞ」
刹那は冷たく言い放った。
「あなたが触ったから汚れたわ。もういらない」
会場が静寂に包まれた。
刹那は背を向けて、その場を去った。
深夜。
二人の家の寝室で、暁が帰宅した。
「刹那、今日のことだが......」
暁は疲れた表情で口を開いた。
「蝶子ちゃんを敵視するのはやめてくれ。彼女は数日間、この家に泊まることになった」
刹那は振り返らずに答えた。
「そう」
「蝶子ちゃんは妊娠中で不安定なんだ。君も女性なら理解してくれるだろう」
刹那は静かに尋ねた。
「もし、もしもの話だけど、蝶子が『ゼロ』じゃなかったら、それでもあなたは彼女にあんなに良くする?」
暁は即座に答えた。
「当然だ。『ゼロ』かどうかは関係ない。蝶子ちゃんは俺にとって妹のような存在なんだから」
刹那は心の中で呟いた。
あと一日だけ。