第8話:静かな決別
[氷月詩の視点]
蓮が刹那を連れて去った後、私は一人レストランに残されていた。
他の客たちは騒動の後、ほとんどが帰ってしまい、店内は静寂に包まれている。
「奥様、申し訳ございませんでした」
店員が恐縮しながら近づいてきた。
「旦那様からお預かりしております」
差し出されたのは、小さなバースデーケーキだった。
ピンクのロウソクが一本、立てられている。
「旦那様が、必ずお渡しするようにと」
蓮からの、せめてもの罪滅ぼし。
でも、もう遅い。
「ありがとうございます」
私は静かにケーキを受け取った。
一人きりのテーブルで、ロウソクの小さな炎を見つめる。
火を吹き消す前に、私は目を閉じた。
そっと願いを込める。
どうか。私の赤ちゃんが、次こそ心から愛し合う両親のもとに生まれ、あたたかな一生を送れますように。
息を吹きかけると、炎が消えた。
ケーキを口に運ぶ。甘いはずなのに、冷たく苦い味しかしない。
まるで、私たちの結婚生活のように。
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蓮は病院の待合室で、刹那の診察を待っていた。
「煙は吸っていませんね。大丈夫です」
医師の言葉に、蓮は安堵のため息をついた。
「よかった……」
「蓮くん、ありがとう」
刹那が蓮の腕に寄りかかる。
「当然だろ。お前を守るのは俺の役目だ」
蓮の携帯に、詩からのメッセージが届いた。
『お疲れさま。先に帰ります』
「詩からだ。先に帰るって」
「詩さん、怒ってない?」
「大丈夫だよ。詩は理解してくれる」
蓮は軽く答えた。
でも、彼は気づいていない。
妻の心が、もう完全に離れてしまったことに。
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[氷月詩の視点]
家に帰ると、携帯が鳴った。
神楽坂弁護士からだった。
「氷月さん、離婚協議書の準備ができました」
「ありがとうございます。すぐに伺います」
「今からですか?もう夜ですが……」
「構いません」
私は迷いなく答えた。
一刻も早く、この関係に終止符を打ちたかった。
弁護士事務所は夜でも明かりが灯っていた。
「お疲れさまです」
神楽坂先生が書類を差し出す。
私はためらうことなく、ペンを取った。
「本当によろしいのですか?財産分与を放棄されるということは……」
「はい」
サインを書き終えて、ペンを置く。
「今後は、氷月と呼んでください」
「え?」
「竜ヶ崎じゃなくて、氷月って呼んでください。私と竜ヶ崎蓮は、もう関係ありませんから」
神楽坂先生が困惑した表情を浮かべた。
「でも、旦那様がサインを拒否される可能性も……」
「彼は離婚を望んでいるはずです」
私はきっぱりと言った。
「刹那さんと一緒にいるために」
神楽坂先生は何も言えずに、書類をファイルにしまった。
家に戻ると、誰もいない静寂が私を迎えた。
荷物をまとめ始める。
思い出の品々を、一つずつスーツケースに詰めていく。
「奥様?」
家政婦が心配そうに声をかけてきた。
「少し出かけるだけです」
「どちらまで?」
「ソル・シエラです」
家政婦の目が見開かれた。
「お一人で?」
「はい」
私は小さな箱を取り出した。
中には、蓮が知らない全てが入っている。
妊娠検診の記録。
エコー写真。
流産の診断書。
彼が知らなかった、私たちの子供の存在の証拠。
「これを、蓮に渡してください」
箱を家政婦に託す。
「私は、もう行くから」
「奥様……」
家政婦の声が震えていた。
でも、私の決意は変わらない。
空港へ向かうタクシーの中で、私は窓の外を眺めていた。
この街ともお別れ。
蓮ともお別れ。
全てともお別れ。
ソル・シエラ行きの飛行機に乗り込んだ時、私の心は軽やかだった。
飛行機が離陸した瞬間、これまでにない解放感が胸に広がった。
愛のない関係から、ようやく自由になれた。
これが、本当の幸せなのかもしれない。
雲の上から見下ろす景色は、美しく輝いていた。
一方、何も知らない蓮は、刹那を送り届けた後、空っぽの家に帰ることになる。
そして、妻が残した小さな箱の中身を見た時、彼はどんな表情を浮かべるのだろうか。