かつて「京極グループ」と呼ばれた会社。いまは篠原青斗の手に渡り、「A&Mインターナショナル」と名を変えていた。
半年の間に事業は拡大し、往年の京極健太の栄華すら軽く凌駕していた。
――やっぱり彼は、どうしようもなく優秀なのだ。
誰よりも、ずっと。
そう思うと、自分の見る目は案外悪くなかったのかもしれない。
美咲は唇の端をわずかに吊り上げ、皮肉めいた笑みを浮かべながら受付に歩み寄った。「すみません。篠原さんにお会いしたいのですが」
受付嬢は一瞬、彼女の顔に驚いたように目を見開いたが、
すぐに表情を整えて電話を取った。
短いやり取りのあと、柔らかく微笑んで告げる。「篠原社長がお待ちです。どうぞ、オフィスへ」
「ありがとう」
美咲もまた笑みを返す。
――待たされるような茶番を仕掛ける気はないらしい。
ならば、自分から差し出せば、彼の気も少しは収まるだろう。
彼女はエレベーターに乗り込んだ。
青斗が京極グループを継いだあとも、会社の内装は変わっていない。
美咲はこの光景を見ると、少しぼんやりとしていた。
人が一番捨てられないのは、やはり「思い出」なのだろう。
この街の中心にそびえるオフィスビルには彼女の過去が詰まりすぎていた。
半年前、自分が離婚届に署名した時も、ここから出たのだ。
無一文でね。
京極家の者たちは、このビルともうなんの関係もない。
「チン」
最上階に到着した電子音が鳴る。
深く息を吸い、美咲は重厚な扉をノックした。
「入れ」
低く響く男の声。
美咲は口元に艶やかな笑みを浮かべ、静かにドアを開ける。
黒と白を基調にした広いオフィス。その奥で黒革の椅子に腰掛ける男と視線が交わる。「篠原さん――またお会いできましたね」
華やかに微笑む彼女に、青斗は淡々と目を向けただけ。言葉はない。
美咲はまっすぐ歩み寄り、デスクの前に立った。「今日は謝りに来ました。先日は私が悪かった。だから今日は……篠原さんのお望みのままに。どうなさっても構いません」
甘やかに笑う彼女。
美咲はとても美しく、特にその笑顔。
その微笑みは確かに人を惹きつけ、そして不思議と嫌味がない。
誰もが抗えない魅力を孕んでいた。
青斗はふと、三年前の記憶を呼び起こす。
――あのときも彼女は、乖順な顔をして、少し顎を上げながら言った。
「私と結婚して。でなきゃ白石杏が死ぬのを待つことになる」
彼は彼女のその時の表情をまだ覚えていた。
笑顔は誠実そうで、本当に信じられないほど素直に見えた。
素直そうに見せかけて、奥に潜むのは京極家特有の冷酷さだ。
「……それで?」篠原青斗はかすかに口角を上げ、声を低めた。
「どうやって『遊ばせて』くれるつもりだ?」
美咲はにっこりと笑い、ゆっくりと膝を折った。男の脚の間に跪くように腰を落とす。
青斗の瞳が細められる。その仕草に込められた意味を悟りながらも、感情は読めない。
長い髪を耳にかけ、顔を近づける彼女。睫毛が蝶の羽のように影を落とし、彼の視界には白い顎のラインが映った。
紅い唇がわずかに開き――彼のスーツのジッパーを噛みとめる。吐息が敏感な場所にかかり、青斗の眼差しは一瞬で暗く沈んだ。次の瞬間、彼は手を伸ばし、彼女の髪を乱暴に掴んだ。
声は冷たく、低く。
「……離せ」