第08話:解放への扉
彰が美夜と共に去った後、雫は一人でテーブルに残された。
静寂が戻ったレストランで、店員が小さなケーキを運んでくる。
「神凪様からのプレゼントです」
ピンクのクリームで飾られた小さなケーキ。上には一本のロウソクが立っている。
雫は静かにライターを取り出し、ロウソクに火を灯した。
小さな炎が揺れる。
目を閉じて、手を合わせる。
——お疲れさま。
亡くなった赤ちゃんに向けて、心の中で呟いた。
——もう、大丈夫だから。
息を吹きかけて、炎を消す。
ケーキを一口食べる。甘いはずなのに、冷たく苦い味がした。
携帯が鳴る。弁護士からだった。
「霜月さん、離婚協議書の準備が整いました」
「今から伺います」
雫は迷わず答えた。
弁護士事務所は夜遅くまで開いている。雫はタクシーを呼んで、すぐに向かった。
「本当によろしいのですか?財産分与を一切求めないというのは」
橘弁護士が心配そうに尋ねる。
「はい」
雫はペンを取り、迷うことなく離婚協議書に署名した。
「神凪じゃなくて、霜月って呼んでください。私と神凪彰は、もう関係ありませんから」
橘弁護士の表情が困惑に変わる。
「でも、神凪さんが署名を拒否する可能性も……」
「彼は離婚を望んでいるはずです」
雫の声に迷いはなかった。
「美夜さんと一緒にいたいでしょうから」
自宅に戻ると、静まり返った家の中で雫は荷造りを始めた。
「奥様、どちらへ?」
家政婦が心配そうに声をかける。
「言う必要はありません。彼にも」
雫は冷たく答えながら、クローゼットから服を取り出していく。
そして、寝室の奥から小さな箱を取り出した。
妊娠検診の記録。エコー写真。流産の診断書。
彰が知らない、全ての証拠。
箱を家政婦に差し出す。
「これ、明日の朝、必ず彼に渡してください」
「奥様……」
「私は、もう行くから」
雫はスーツケースを引いて玄関に向かった。
タクシーが迎えに来ている。
「空港まで」
瑠璃島行きの最終便に間に合う時間だった。
飛行機の窓から、夜景が遠ざかっていく。
離陸した瞬間——
雫の心に、これまで感じたことのない感情が湧き上がった。
そうか。
愛してくれない人のもとを離れるって、こんなにも嬉しいことだったんだ。
翌朝、神凪家では彰が寝室で目を覚ました。隣に雫の姿はない。
階段を降りると、家政婦が小さな箱を差し出した。
「奥様からです」
彰は箱を開けた。
その瞬間、彼の顔が青ざめた。