Bab 5: 第五章：忘れられた画家の名前
呪われた絵画『奈落の少女』との遭遇から一夜が明けた。
僕、神木凌は、昨日の精神的な消耗が抜けきらず、重い体を引きずって古物店『時のかけら』の扉を開けた。店の中では、月読さんが静かにカウンターを磨いていた。例の絵は、彼女が特別に用意したらしい桐の箱に収められ、お札が貼られている。それでもなお、箱からは微かに冷たいオーラが漏れ出ていた。
「おはよう、神木くん。顔色が悪いわね」 「……あなたのせいですよ」 「あら、心外だわ。無茶をしたのはあなたでしょう？」
悪戯っぽく笑う彼女の手元には、数冊の古びた画集や美術雑誌が積まれていた。どうやら、僕が来る前から調査を始めていたらしい。
「彼女の無念を晴らす。そのためには、まず彼女が誰なのかを知る必要があるわ。名前、経歴、どんな人生を送り、何に絶望したのか」 「手がかりは、あの絵だけですか」 「ええ。作者のサインはなかった。意図的に消したのか、あるいは最初から描くつもりがなかったのか……」
月読さんは一冊の分厚い画集を僕の前に滑らせた。『近代日本洋画百選』と題されたその本は、歴史の重みで少し黄ばんでいる。
「昨夜、絵の記憶を追体験した時のことを、思い出せる限り教えてくれる？ アトリエの様子、画材、キャンバスの裏に何か書いていなかったか……どんな些細な情報でもいいわ」
僕は目を閉じ、『記憶の残滓』で視た光景を反芻する。石造りの冷たい部屋、使い古された画材、そして……そうだ。イーゼルの隅に、小さな文字が彫られていた気がする。
「……アトリエは、たぶん美大か何かの施設です。それと、イーゼルに『M.A.A』と彫られていたような……」 「M.A.A……」
月読さんはその三文字をメモすると、すぐに店の奥の書庫へと消え、数分後、さらに埃っぽい数冊の古書を抱えて戻ってきた。それは、数十年前の美術大学の卒業名簿や、当時の展覧会のパンフレットだった。
「これだけ古いと、データベースにも残っていないのよね。アナログな方法で探すしかないわ」
二人で、膨大な量の資料に目を通し始めた。時間だけが、静かに過ぎていく。僕はページをめくる指先に意識を集中し、そこに残された微かな感情の痕跡を探った。ほとんどのページからは、紙の古びた匂いしかしない。
だが、ある一冊の、古い美術雑誌のページをめくった時。
指先に、ピリッとした微かな《悔しさ》の感情が触れた。
「月読さん、これ……」
それは、学生主催の小さなコンクールに関する、ほんの数行の記事だった。『期待の新人』として数名の学生の名前が挙げられている中に、僕の目が釘付けになる記述があった。
『……中でも、武蔵野美術学園（Musashino Art Academy）の如月（きさらぎ）しおりは、その早熟な才能に審査員から賛否両論が巻き起こった。彼女の描く、内面の闇を抉り出すような作風は、一部から熱狂的な支持を得たものの、受賞には至らなかった』
武蔵野美術学園。その頭文字は、M.A.Aだ。
僕はその記事の小さなモノクロ写真に、そっと指を触れた。そして、スキルを発動する。 ――『記憶の残滓（メモリー・トレース）』！
【感情ポイント100を消費します】
脳裏に、ノイズ混じりの光景が流れ込む。 薄暗い廊下。数人の男子学生たちが、一人の女子生徒を取り囲んで嘲笑している。 「おい、見たかよ如月の絵。暗すぎて気味が悪いぜ」 「天才だって言うから期待したのによ。あんなの、ただの病人の落書きだろ」 「才能の無駄遣いだな」
冷たい言葉の刃が、写真の中の少女――如月しおりの心を突き刺していく。彼女は何も言わず、ただ唇を噛み締め、俯いている。その瞳の奥で、静かに《絶望》の種が芽吹くのが、僕にははっきりと視えた。
「……いた」
僕は呟いた。 「この絵を描いた人の名前は、如月しおり、です」
僕の言葉に、月読さんは目を見開いた。そして、僕が指差す記事の名前を見ると、何かを確信したように深く頷いた。
「よくやったわ、神木くん。第一関門、突破ね」 彼女は『如月しおり』という名前を、新しいメモ用紙に丁寧に書き記す。
【クエスト進捗：画家の名前を特定しました】 【『奈落の少女』に込められた怨念が、わずかに揺らぎました】
システムのメッセージが、僕たちの調査が正しい方向へ進んでいることを示していた。
しかし、名前が分かっただけでは、何も解決しない。なぜ彼女は誰にも認められず、絶望の中で死ななければならなかったのか。彼女の魂を絵の中に縛り付けている、本当の理由は何なのか。
「彼女の人生を、もっと詳しく調べる必要があるわね」と月読さんが言う。「彼女の家族、友人、そして……彼女が最も憎んでいたであろう、彼女の才能を認めなかった“誰か”を」
僕たちの探偵ごっこは、まだ始まったばかりだった。それは、一人の忘れられた天才画家の、悲痛な叫びを辿る旅。僕たちは、その声なき声に、耳を澄ませる。
Status Power Mingguan
-- Peringkat
Power 
-- Power
stone