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江市、夜。
寂れた裏路地。昼でもほとんど人が来ないこの道は、夜ともなると一層静まり返り、人影さえ見当たらなかった。
月明かりが苔むす石畳を静かに照らしていた。野良猫が餌を探して鼻を地面につけ、奥へと進んでいった。
ほんの数秒後、その猫が何かを見つけたのか、瞳孔が一気に開き、背中を弓なりにして怯えた。
そこには、まだ温もりが残る少女の遺体が横たわっていた。
栄養失調で痩せ細った体。乱れた長い髪、汚れたTシャツ、首には赤く腫れた絞め痕が残った。
だが次の瞬間、信じがたい出来事が起こる。遺体の指先がぴくりと動き、少女がゆっくりと目を開いた。
「……生き返ったの?」
少女はゆっくりと地面から身を起こし、青白い唇から澄んだ鈴のような声が漏れた。
漆黒の長い髪が月明かりの下、風に揺れ、不気味さの中にどこか妖艶な雰囲気があった。
この身体の名は清水初実(しみず はつみ)。これが、これからの自分の名前となった。
清水初実は立ち上がろうとしたが、この体はあまりにも弱く、歩こうとしてもふらついてしまった。今の魂力では、この傷ついた体を修復するには最低でも一週間はかかりそうだった。
長かった。
がっかりしかけたその時、鼻先がひくりと動き、空気の中に何かを感じ取った。清水初実はぱっと顔を上げた。
——
道端には、真っ黒な高級マイバッハが静かに停まっていた。
木村俊介(きむら しゅんすけ)は車内で、翡翠を取りに行った秘書が戻るのを待っていた。
藤原家は明日、チャリティーオークションを開き、江市の名士たちを招待する予定だ。とはいえ、出品されるのは招待客が持ち寄る私物ばかりだった。
藤原家自身は一銭も出さず、名声も顔も手に入れた――なんとも抜け目ないやり方だった。
木村俊介はこうした場に出るのは気が進まなかったし、行っても歓迎されることはなかった。
それでも、木村家と藤原家は親戚同士。藤原家の長老の顔を立てて、顔を出して品を寄付しなければならなかった。
——コンコン。
木村俊介がスマホを見ていると、突然窓をノックする音がした。
顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。思わず、木村俊介の表情が固まった。
少女はひどく痩せていて、背は160センチくらいだった。小さな顔は、手のひらほどの大きさしかなかった。
乱れた長い髪が肩にかかり、顔も服も汚れていて、元の顔立ちさえわからないほどだった。
——物乞いか?
木村俊介は動きを止め、スーツのポケットから財布を取り出して、二百円を五枚抜き、窓を少し開けて差し出した。
だが、差し出したお金を少女は受け取らなかった。木村俊介が眉をひそめたその時、不意に手首を少女に掴まれた。
木村俊介の瞳孔が収縮し、思わず声が出った「離せ!」
少女が汚いからではない。木村俊介は生まれつき「天煞孤星」の命を持った。体の弱い人が彼に触れれば、動悸や、ひどい時は心臓発作ですぐ死んでしまうこともあった。
「離さない」
木村俊介は意外そうに少女を見る。こんな返事をするとは思っていなかった。しかも、彼女の手は驚くほど力強く、木村俊介が思いきり振り払おうとしても離れなかった。
「お金はいらない」
少女はそのまま手を掴みながら言った。
ここでようやく木村俊介は、灰で汚れた少女の顔が、実はとても整っていることに気づいた。特に澄んだ瞳は、ガラス玉のようにきらめいていた。
「……じゃあ、何が欲しい?」木村俊介は低く問いかけた。
「欲しいのは……」少女がふいに身を乗り出し、ぽつりと言った。「あなた」
え?
木村俊介の表情が固まり、体を動かそうとしたが、急にまったく動かなくなった。
次の瞬間、少女の唇が木村俊介の唇に重なった。
唇が触れたその瞬間、俊介は思わず目を見開いた。見えるのは少女のかすかに震える睫毛と、交じり合う呼吸だけ。
五分ほどして、ようやく少女は唇を離した。
「キスのときは目を閉じるものだって、誰かに教わらなかった?」
「……まあ、これはキスじゃないけどね」
少女はぽつりと呟いた。そして真剣な顔で言った。「とにかく、キスしたからには、責任を取るわ」
そう言いながら、清水初実は色あせたボロボロのジーンズのポケットをゴソゴソ探った。
ようやく見つけた一枚の小さなコインを、強引に木村俊介の手のひらに押し込んだ。
「これは手付金。残りはまた会ったときに返すね」
「そうそう、私は清水初実。清らかな水の清水、初めての実の初実って書くの」
少女の姿が完全に見えなくなるまで、木村俊介を拘束していた力は消えなかった。
翡翠を持って戻った秘書がドアを開けると、後部座席の木村俊介は荒く息をつき、胸が激しく上下していた。
「社長、大丈夫ですか?」櫻間千恵子(さくらま ちえこ)が急いで駆け寄った。
「……大丈夫だ」木村俊介は深く息を吸い、暗い瞳に言い知れぬ感情が浮かんだ。
「櫻間千恵子、ある女性を調べてくれ。江市中どこでもいい、必ず彼女を探し出してほしい」
——
偶然出会ったこの男は、尋常じゃないほど強い煞気を持っていた。それも、まじり気のない純度の高さだった。
煞気というものは、生まれつき命に備わるもの。生まれながら煞気が強い者は、自分の気でそれを抑え込めれば人の上に立つ存在になれたが、そうでなければ煞気に呑まれて若くして命を落とした。
いずれにしても、煞気が強い人間のそばには、普通の命格の人は近寄れなかった。関わると、必ず不運を呼び込んだ。
でも今の清水初実にとって、煞気は一番早く魂力を回復できるものだった。
わずか五分吸っただけで、身体が信じられないくらい軽くなった。魂力が四肢を巡り、呼吸するたびに生気がみなぎた。
そのまま道端に座り込み、前の持ち主の記憶を一つずつ頭の中で確認していった。見終わったところで、ポケットの携帯が鳴り始めた。
着信だった。
清水初実は古びたノキアを取り出し、ディスプレイに表示された発信者名を見た。元の持ち主が登録していたのは、[兄]――。
清水家の人間、か……
清水初実は顎に手を当てて考えた。
一時間前に自分を絞め殺すように仕向けたのは、顔も知らなかった「母親」か。それとも、婚約者と付き合っているあの妹なのか?