待合区域は、だだっ広く、清潔なホールだった。巨大な白い石柱がドーム状の高い天井を何本も支えている。
タロとグレースはそれぞれの執事と別れた後、荷物を手に、連れ立ってホールの中へと足を踏み入れた。
中にはすでに、船を待つ多くの学生が集っていた。タロたちの入場は、彼らの注目を一身に集めることになった。
何人かはタロの姿を認めるや、すぐさま視線を逸らした。あの悪名高き放蕩息子から目をつけられてはたまらない、とでも言うように。また別の何人かは、なぜあの二人が一緒にいるのかと、好奇の眼差しを向けてくる。
中でも一際、激しい反応を示した者がいた。タロの姿を認めた瞬間、その顔に憤慨の色を浮かべたのだ。
その場でタロに向かって、ぐっと親指を立てる。次の瞬間、それを逆さまにして、地面に突き刺すような仕草を見せた。その表情は、あからさまな挑発に満ちていた。
「タリスさん、ルークとも何かあったのですか?」その様子を見て、グレースが隣のタロに尋ねた。
「帝室宮廷で、共に学んだことがある。というか、なぜ『も』なんだ」タロは、どこかうんざりしたように答えた。
タロを挑発してきた男の名は、ルーク・ウェルズ。辺境侯の息子だ。
燃えるような赤毛と、同年代の中では明らかに一回り大きな、鍛え上げられた体躯を持っている。
かつて共に貴族教育を受けたとはいえ、二人の間に深い交流があったわけではない。
ルークがタロを目の敵にする理由は、実に些細なことだった。ある大きなレストランで、二人が同時に窓際の席を所望し、いさかいになったのだ。
その時、タロは勝負で決めようと提案した。勝った者がその日の席の使用権を得る、と。ルークは喜んでそれに応じた。
ただ、タロが提案した勝負の内容は、どちらの父親の爵位が高いか、というものだったが。
その一件以来、ルークはタロを蛇蝎のごとく嫌っている。
これらはすべて、前世のタロがやらかしたことだ。今のタロにしてみれば、子供の意地の張り合いにしか見えない。
朧げな前世の記憶をたどる。確か、ルークはゲームにおける準主役級のキャラクターで、物語のどこかで、自分を瞬殺する役回りだったはずだ。
その手際は実に見事で、苦痛を感じる暇もなかった、とか。
そこまで思い出して、タロは思わずルークに笑みを向けた。彼こそは、自分が神秘の力を手に入れるための、またとない協力者なのだから。
ルークは、タロの微笑みを自分への侮辱と受け取った。彼の心に、さらなる怒りの炎が燃え上がる。
周囲の者たちは、タロの意外な反応に唖然としていた。あの放蕩息子が、今日はどういう風の吹き回しだ?
中には、ルークの素性を知る者もおり、自分たちだけが真相を理解したと頷きあっている。
ルークの父親は、紛れもない武功派の貴族だ。南方大陸で、帝国を脅かす堕落種を掃討し続けている。
本気で争いになれば、たとえルークがその場でタロを殴り倒したところで、大したお咎めはないだろう、と。
人々が様々に噂しあう、その最中だった。
突風。視界を奪うほどの。
それが過ぎ去った後、一隻の古めかしい船が、目の前に現れた。
その巨体は、まるで古代のクジラを思わせる。陽光を一切弾かない、くすんだ灰色の船体が、空に浮かんでいる。
地響きと共に、遮光カーテンのように巨大なタラップが崖に架けられ、船体と陸地が繋がれた。
初めて目にするその壮大な光景に、未来の魔法使いたちの瞳は、一様に輝きを放っていた。
空に浮かぶ巨大な塊を見上げ、科学という名の唯物論の下で育ってきたタロもまた、心臓の鼓動が速まるのを感じていた。
この、視覚を直接殴りつけるような衝撃は、先程のグレースの精神魔法とは比べ物にならない。
タラップが軋み、揺れる。身長3メートルはあろうかというジャイアントが、船から降りてきた。
彼は着ている布のローブをパンパンと叩き、乱れた髭を無造作に整え、二、三度咳払いをした後、その粗野な大声で自己紹介を始めた。「おれはクルーゼ!てめえらの、今回の旅のナビゲーターだ!」
タロは老執事から彼のことを聞いていた。ジャイアントとドワーフの混血種で、ある種の伝説的な人物なのだという。
クルーゼの先導で、学生たちは次々とタラップを踏みしめ、船内へと向かう。
タラップは十分に広く、分厚いものだったが、クルーゼの巨大な足がそれに触れるたび、身の竦むような揺れが足元から伝わってきた。
グレースは最初の数回の揺れで、無意識にタロの袖を掴んだ。失礼に気づいて一度は手を放したが、止まらない揺れに、結局は船内に入るまで、袖を掴み続けていた。
「着いたぞ」タロは、まだ動揺の覚めやらぬグレースを横目で見た。
「あ、はい。ありがとう、ございます」グレースは、言われてはっと我に返り、慌てて手を離した。
船内の気温は、外よりもずっと暖かい。床には青々とした苔が蔓を伸ばし、その合間に、木製の椅子が無造作にいくつも置かれている。
クルーゼは一人一人に精巧な作りの小さなケーキを配り、空腹しのぎになること、学校まではおよそ2時間かかることを告げた。
最後に、いくつかの簡単な注意事項を伝えると、彼は船倉を出て、どこかへ行ってしまった。
タロはあまり目立たない隅の席を見つけて、ケーキを食べ始めた。口に入れると、まるで綿菓子のように、驚くほど柔らかく溶けていく。
すべてを飲み込むと、体力と気力が急速に満ちていくのが、はっきりと感じられた。
「二つ目の要求を、今お話しいただいても?」グレースが、タロの隣に腰を下ろして言った。
「ああ。ただ、二つ目の要求は少し厄介でな。すぐに終わるようなものじゃない」タロは、ケーキの甘い後味を楽しみながら答えた。
「美徳に反しない限りは」
タロは、定期的に自分に精神魔法をかけてほしいと要求した。質問内容は、こちらで指定する、と。
その理由が、【ヴァーチュー・アンセム】を利用してタロの意志力を鍛えるためだと聞いた時、グレースは思わずこう評した。「……傲慢な方ですのね」
「私達フルーレ家のヴァーチュー・アンセムが、世間でこれほどの評価を得ているのは、単に敷居が低く、無詠唱で発動できるからだけではありません」
「その精神への侵略性もまた、指折りです。数回ならまだしも、それを長期にわたって続ければ、あなたの意志がいかに強固であろうと、いずれは磨り減って、塵となるでしょう」
意志力を鍛えるというのは、タロが咄嗟に考えた口実に過ぎない。神秘の門の、あの底なしの吸収力を見るに、そもそも鍛錬にすらならない可能性が高い。
この理由をグレースに告げたのは、余計な疑念を抱かせないためだったが、その嘘発見能力を考えると、適当な嘘で誤魔化すわけにもいかなかったのだ。
ああ、面倒な女だ。
「出会って間もない相手を、いくつかの浅薄な言動だけで断じる。それは、傲慢ではないのか?余計なことは気にするな。君は言われた通りにすればいい」
タロはそれだけ言うと、もはやグレースには構わず、目を閉じて前世の連続ドラマのイッキ見を再開した。
「な……!」グレースは、言いたいことが山ほどありすぎて、すべてが喉のあたりで詰まってしまった。
まあ、いいわ。いずれ彼の精神に異常をきたしたとしても、その時は美徳に反するとして中断すればいい。それで、要求も果たしたことになるのだから。
そうこうしているうちに、タロがドラマの第五話のエンディングに差しかかったところで、グレースに声をかけられた。
見ると、経験豊富な高学年の生徒たちが、すでに荷物を持って立ち上がり、固く閉ざされていた船倉の扉を開け、次々と甲板へと出ていくところだった。下船の準備を始めたのだ。