運転手は清潔なタオルを取り出し、男の子の体を拭いてやった。その間、坊ちゃまは一言も発さず、ただじっと俯いたまま大人しくしている。
石川瑠那は震えていた。寒さのせいでもあり、怒りのせいでもあった。手のひらはすでに血で滲み、頭の中には出て行く直前に見た畑中颯太の顔がちらつき、目の奥が赤く燃えていた。
「お嬢さん、どちらまで行かれます?先に送りますよ」
運転手は不安げに声をかけた。この車は畑中彰様のものだ。彰様は、坊ちゃまのそばに女を置くことを何より嫌う。だから、このまま石川瑠那を屋敷に連れ帰るわけにはいかない。
「中央病院まで……お願いします」
そう告げた瞬間、瑠那の視界にふいにタオルが差し出された。
驚いて顔を上げると、それを差し出していたのは坊ちゃまだった。胸の奥がつんと締めつけられる。冷たい雨の夜に、思いがけず与えられた唯一の温もり――それがこの見知らぬ子どもからだった。
「……ありがとう」
かすれた声で礼を言い、タオルを受け取る。髪先の水滴を拭いながら、シートを汚すまいと動作はひどく慎重だった。
その様子をバックミラー越しに見て、運転手の胸中の疑念はさらに深まったが、余計なことは言わず車を病院へ走らせた。どうせ帰り道なのだ、坊ちゃまを着替えさせるにも都合がよい。
車が停まると、瑠那は雨の中へ飛び出そうとした。だが坊ちゃまが彼女の袖を掴み、虚ろな瞳で見上げてきた。
ようやく気づく。この静かな子どもには、何か特別な事情があるのではないか。瑠那はアルバイトの経験で多くの人と接してきた。ひと目で分かった――この子はおそらく発達障害のひとつ、孤立傾向、いわゆる自閉症を抱えているのだろう。
「……かさ」
か細い声が、やっと唇からこぼれた。言葉を発するだけで、苦しいほどに力を要しているのが分かる。
運転手は慌てて傘を差し出した。「お嬢さん、外は土砂降りです。どこかで着替えてください、風邪をひきますよ」
瑠那は深く頷き、坊ちゃまを見つめたまま傘を受け取ると、雨の帳へ駆け込んでいった。
彼女の背を見送ると、運転手はすぐにハンドルを切り、紫苑ガーデンへ車を走らせた。
寧崎市でも伝説的な存在とされる紫苑ガーデンの別荘街。その一帯すべてを開発したのが畑中家であり、ここに住むのは選ばれた人々ばかり。そして、畑中彰の邸宅は最も高みに位置していた。
車を停めると、ちょうどもう一台の車が入ってきた。運転手は慌てて駆け寄り、ドアを開ける。
「畑中様」
冷えきった表情、完璧に仕立てられたスーツを纏い、畑中彰が現れた。「渉は?」
「車の中に」
彰の歩みは速くなり、ベントレーの扉を開けて小さな体を抱き上げた。ふと鼻先にかすかな香水の香りを感じ、眉間に皺を刻む。
「くだらない女を近づけるな」
運転手の背筋に冷たいものが走り、黙って従うしかなかった。
屋敷へ戻ると、彰は自ら子どもの服を着替えさせ、ドライヤーで髪を乾かしてやった。いつもの硬い表情がわずかに和らぎ、声も柔らかさを帯びる。
「渉……お腹はすいてないか」
少年は椅子に座ったまま俯き、ただ従順に髪を乾かされている。
彰の瞳に一瞬、深い感情がよぎった。小さく息を吐き、家政婦に軽食を用意させると、電話を手に取って本家に連絡した。
「渉が雨に濡れてしまった。今夜は行けない……ああ、父さんたちだけで召し上がってください」
もともとは彼のために用意された歓迎の席。主役が不在となれば、宴も色を失う。
だが「渉が雨に打たれた」と聞いた老父母は、すぐにでも駆けつけようとした。しかし彰に宥められ、結局その場に留まった。