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Bab 10: 獣人の里へ

獣人──それは、人の姿に獣の血を宿す者たち。

耳と尻尾を持ち、身体能力に優れ、人間たちとは昔から衝突と軋轢を繰り返してきた存在。

その彼らが暮らすという里が、森の奥地にひっそりと存在するという。

「……で、なんでそっち行くんでしたっけ?」

レインが、地図を広げたまま首をかしげる。

「別にええやろ。あのオオカミみたいなやつが住んどる里、見てみたい思うてな」

拳志は、手を後ろで組んで歩きながら、ぽつりと言った。

「……結局、ガルドのことが気になるんでしょ」

アリシアが前を歩きながら、ちらりと振り返る。

「気になるいうか……ええ喧嘩やったからな。あんなやつがようけおるとこ、見てみたいだけや」

拳志は素直に言った。

レインが前に出て、巻物を広げるように地図を手の中で整える。

「この先に、獣人と共存している村があります。もともとは森を監視するために作られた場所で……里のことを知っている人もいるでしょう」

「ほう。ええ案内板やな」

拳志が口笛まじりに言う。

「とりあえず寄ってみよか」

アリシアは振り返り、眉をひとつ上げた。

「油断しないでね。『共存』って言っても、今は空気が違うはず」

──ほどなく、森の手前に村が現れた。

村の入口には、かつて森を監視するために築かれた名残が色濃く残っていた。

木と石で組まれた高い見張り台には今は誰もおらず、弓掛けや鐘の縄だけが風に揺れている。

森へ向けて弧を描く柵には鋭い杭が並び、外敵を拒むようにそびえていた。

しかし、村は静まり返っていた。

人通りはあるのに、どこか空気が張り詰めている。

目に入るのは年寄りや子どもばかりで、荷車を引く力仕事の姿はまるでない。

いつもなら人間と並んで作業していたはずの獣人の姿が、一人として見当たらなかった。

拳志が鼻で笑った。

「祭りの翌日かいな。静かすぎるで」

レインは小声で言う。

「……おかしい。獣人の姿が一人もいない。荷車の轍も薄い……交流が止まってるのかな?」

井戸端で桶に水を汲む老婆がひとり、こちらを見て目をそらした。

アリシアが距離を詰め、腰を折って声をかける。

「失礼。少し、お話を伺っても?」

老婆は周囲を一度見回し、声をさらに落とした。

「最近ね……黒装束の連中が、獣人の子や女をさらっていくんだよ。見かけても誰も手を出せない。助けようとした人間も、いつの間にか消えちまったって……。下手に関われば、次は自分だ。だから皆、戸を閉めてる」

「黒装束……」

アリシアの目が細くなる。

「王国の兵ではないわね。装備が違う」

拳志は短く鼻を鳴らした。

「また腐っとる匂いやな」

老婆は拳志たちをじろりと見、井戸の水面へ視線を落とす。

「森の奥には、獣人の里がある。昔は争いも多かったけどね、今は畑を手伝ってくれたり、狩りの獲物を分けてくれたり……よかったんだよ、ここ数年は。あの子たちがいなくなってから、おっかない日ばかりさ」

レインが礼を言い、三人は通りを抜けて森の縁へ戻った。

柵の杭に触れると、夏の日で温まった木の匂いと、わずかな焦げ跡が指先に移る。

アリシアが言う。

「……王国が関わっているかは断定できない。けど、何が裏がありそうね」

「むずかしい顔すんな」

拳志は一歩、森の陰に足を踏み入れた。

「ややこしい話は、殴るもん見つけてからでええ」

レインが慌てて追う。

「ま、待ってください!もう日が傾いてます。危険ですって!」

拳志は構わず歩き出す。

「日が暮れる前に、腐っとる奴らの匂いくらいは掴めるやろ」

アリシアはこめかみに手を当てて、ぐっと堪える。

「……もうちょっとこう、段階とか考えようって発想はないわけ?」

「あるで。とりあえず突っ込むか、ちょっと様子見てから突っ込むかやろ?」

「……もう……」

アリシアはこめかみを押さえ、息を吐いた。

「ほんっと、あんたは」

「褒め言葉やな」

──森は、境目を越えた途端に空気が変わった。葉の密度が増し、音が吸い込まれる。

鳥の鳴き声が遠のき、代わりに木々の軋む音が耳に残る。

アリシアが掌をかざす。

薄い光がふわりと浮かび、周囲を柔らかく照らした。

光はあくまで控えめで、遠くに洩れない。

レインも指先で印を結ぶ。

薄青い点がいくつも浮かび、それぞれが一定の距離を保って前方の枝葉に灯った。

拳志は口角を上げた。

「やっぱ魔法って便利やな。懐中電灯もいらん」

「懐中……?」

アリシアが首を傾げる。

「気にすんな。こっちの話や」

足元の落ち葉がわずかに沈む。

踏みしめるたび、湿りを含んだ音がする。

進むほど、森の匂いは濃く、重くなっていった。やがて、耳の奥で違和感が跳ねた。

レインが囁く。

「……聞こえますか?」

風に混じる、布が擦れる規則的な音。人の歩調。小さな呻き。

拳志は指を一本立て、身を低くした。

藪の隙間から覗くと、黒装束の影がひとつ、獣人の子どもを肩に担ぎ、森の奥へと歩いている。

顔は布で覆われ、装備は簡素だが統一感がある。刃は持っているが血はついていない。動きが妙に均一だ。

「……あれやな。村で聞いた連中や」

拳志が唇だけで言う。

レインが提案する。

「尾行しましょう。里の位置が割れるかもしれませんし、背後関係も──」

「そんなん待ってられるかい」

拳志が立ち上がる。

「ちょ、ちょっと!」

アリシアの制止より早く、拳志の足が地面を蹴った。

黒装束が振り向く。反応は速い。

だが、その眼差しに驚きはない。定められた手順をなぞるように刃を構え──

拳志の拳が先だった。刃の軌道の外側を滑って、顔面へ無造作に突き出される。

鈍い感触。手応えはあるのに、音が軽い。

黒装束は倒れ、土に転がった。悲鳴はない。

立ち上がろうともがく気配もない。

代わりに、影の輪郭がほどけた。

布の内側から、黒い霧のようなものがふっと立ち、形が崩れていく。

「……消えた!?」

レインが目を見開いた。

拳志は拳を振って、指先についた冷たい感触を振り払う。

「なんやこれ。殴り応えスカスカや」

レインが黒い守り手の残滓に符を当て、焦りを隠さず呟く。

「ただの兵じゃない……魔法で作られた人形です。術者の視界共有か、使い捨ての偵察兵……情報を残さない造りですかね」

アリシアは担がれていた子どもへ駆け寄る。獣人の耳は泥にまみれ、肩は震えている。

拳志が屈んで手を伸ばすと、子どもはぴくりと後ずさった。赤い瞳が警戒で固まっている。

「……おい、怪我ないか」

拳志は声を落とす。

子どもの喉がつまったように震え、息がかすかに漏れる。

学ランの黒、拳志の短い前髪、がっしりした体躯──「黒装束」と重なって見えているのか、その瞳は怯えに揺れていた。

アリシアが膝をつき、視線の高さを合わせた。

「大丈夫。怖がらないで。私たちはあなたを攫ったりしないわ」

彼女の掌の光が、子どもの顔色だけをそっと照らす。柔らかい灯りが、瞳の揺れを映した。

レインがそっと後ろで符をしまい、声を添える。

「里に送り届けます。道が分かるなら……案内、してくれますか」

子どもは息を飲み、目をアリシアから拳志へ、そしてレインへと移す。躊躇いが、やがて小さく頷く動きに変わった。

「……ついてきて」

細い声。指さすのは、さらに暗い森の奥だ。

拳志が立ち上がる。

「よし。ほな──」

ガサ、と右の茂みが揺れた。

続けて左、そして背後。その音は、空気の張りを一段きつくする。

拳志が即座に声を張る。

「止まれ!」

同時にアリシアの光が縮み、三人と子どもを包むように低く落ちる。

低い姿勢から獣人が三匹飛び出した。

銀や褐色の毛並み、むき出しの牙。

彼らの視線は真っ先に拳志の黒へ突き刺さった。

「黒装束ッ!」

誤認の怒号が夜を裂く。爪が光る。

子どもが悲鳴を飲み込む。拳志が半歩、前へ。

アリシアの指が結界の印を結びかけ──

「人違いやけど……ええか」

拳志は短く笑い、足をひらき、肩を落とした。

次の瞬間、獣の影が三つ、茂みを越えて襲いかかってきた。


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