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「中島先生、娘の容体はどうですか?」
「大丈夫ですよ。家に帰ったら、ゆっくり休ませてあげてください」
「ありがとうございます。本当にお世話になります」
「いえいえ」
夏目詩織(なつめ しおり)の耳に飛び込んできたのは、どこか懐かしいやり取りだった。
小さい頃から身体が弱かった彼女にとって、病院という場所はまるで第二の家のような存在。
この種の会話を耳にするのは、一度や二度ではない。——ただ、高校入試を終えてからは、もうずっと聞くことはなかったはずなのだ。
……それなのに。
たしか自分は、テレビの前で元カレ・渡部進一(わたなべ しんしち)に向かって悪態をついていたはず。どうして気づいたら病院のベッドに寝かされているの?
「……んっ……」
かすかな呻き声を漏らし、詩織はゆっくりと瞼を開けた。
「詩織!目が覚めたのね?どこか痛いところはない?気分はどう?」母親は慌ててベッドのそばに座り、心配そうに娘の顔を覗き込んだ。
「もう、こんなことは二度としないで。お母さんは、あんたに無理して勉強してほしいなんて思ってないのよ。受からなくたっていい。身体が一番大事なんだから。もともと体が弱いのに、また入院するなんて……」
母の口調は優しいのに、どこか小言めいている。
詩織の耳には懐かしく、そして少しだけくすぐったかった。
——もういい年なのに、まだ子ども扱い。
「お母さん、私は大丈夫だよ。」
弱々しく答えながら、詩織は体を起こそうとした。
だが、全身に力が入らない。
結局、母親に支えられ、背中にクッションを当ててもらってようやく座った。
「大丈夫って言うけどね、家で倒れてたのよ!もしお母さんが出張から一日早く帰ってこなかったら、一晩中倒れたままだったんだから!それに今日は、寮に泊まるって言ってたじゃない!体が弱いの分かってるのに無理ばっかりして……。あんたに出世してほしいなんて思ってないわ。適当にどこかの大学に入れればいいの。受からなくたって、お父さんとお母さんがいる。なのにいつも言うこと聞かないんだから!その頑固さ、お父さんそっくりよ。ほら、結果がこれじゃない!」
母親の言葉は止まらない。
今は安堵のあまり、叱ることで気持ちを落ち着けているのだろう。この娘は小さい頃から頑固で、勉強する頭脳はないのに、決して諦めなかった。家で倒れている娘を見つけた時は母上は死ぬほど驚いた。今頃父はおそらく急いでこちらに向かっているだろう。大したことがなくてよかった、さもなければ母上はこれからどうすればいいか分からなかった。
夏目家には詩織だけが一人っ子で、もし何かあったら、母上はとても耐えられなかっただろう。
詩織は聞きながら、ふと首を傾げた。
——大学?
大学を受ける? 何の話?
もう卒業して二年経ってるのに。
次の瞬間、頭の中にひとつの記憶が鮮やかに蘇る。
怒りにまかせて、部屋を飛び出したあの夜——。
その日は名古屋での「新鋭デザイナー授賞式」の中継を見ていた。
だが、画面に映っていたのは自分のデザイン作品だった。しかも、最優秀賞。
そして、名前は……小林彩音(こばやし あやね)。
詩織の宿敵だ。
そう、盗まれたのだ。
しかも、盗んだのは一年交際していた彼氏——渡部進一。
思い出すたびに、胸の奥が焼けるように痛んだ。彼が裏切っただけでなく、敵に寝返ったなんて。
「許さない……」
普段の詩織はおっとりしていて、何事にも穏やかに対応するタイプだった。嫌なことがあっても、あえて見ないふりをすることも多かった。
人生なんて、童話じゃない。いつもきれいなままではいられない——彼女はそう思っていた。
渡部が外で浮気していることも、うすうす気づいていた。
それでも詩織は、二人の関係を静かに終わらせようと考えていたのだ。きちんと話をして、お互い納得して別れる——それが一番だと思っていた。
渡部進一は、詩織が生まれて初めて付き合った恋人だった。
裏切られたと知ったとき、もちろんショックだった。
でも、詩織は感情だけで生きるような女ではなかった。
この一年、二人はほとんど会えていなかった。それぞれ別の部屋に住み、たまに彼が食事に来る程度。手をつなぐくらいがせいぜいで、キスさえまだしていない。そういうことは、結婚してからするものだと彼女は信じていた。
——でも、だからって私を甘く見るなよ。優しい顔の下に隠れているのは、意外と強い女。それが本当の夏目詩織だった。
「いいわ。あの男、思い知らせてやる」
怒りに任せ、詩織は家を飛び出した。まるで決闘にでも行くような勢いで階段を駆け降りた、その時——
「……はぁっ!?うそでしょ、神様!?」
ドンッ。
突然、額に強い衝撃。
痛みが走り、頬をつたう温かい感触。
思わず触れた指先が、赤く濡れている。
(血……?)
視界がぐらりと揺れ、真っ黒に沈んでいった——。
……そして今。
その場面を思い出した詩織は、思わず額に手を当てた。
あれ?
どこも痛くない。
包帯もなければ、傷もない。
まるであの出来事が幻だったみたいに、肌はすべすべのままだ。
「ほら見なさい、来年は受験なんだから、ちゃんと体を休めないと。自分の身体が弱いって、あんたが一番わかってるでしょ?絵を学ばせたのも、少しでも楽な道を選ばせてあげたくてのことなんだから」
母親は、呆れ半分、心配半分の表情で詩織を見ていた。
「……まさか、頭でも打っておかしくなったんじゃ……」
う言いながら、医者を呼ぼうとした母親を、詩織の声が止めた。
母の言葉をつなぎ合わせ、詩織は少しずつ状況を理解していった。——いや、理解というより、信じられないことが起こっているとしか思えなかった。
「受験」?
「勉強」?
おかしい。もう六年前に終わった話じゃない。
もしかして?
胸の鼓動が速くなる。心臓が、ドクンドクンと不規則に跳ねていた。
まさか……
(違う……違うよね?本当に?)
まさか母がからかっているわけじゃないだろう。
でも、母はそんな冗談を言うような人じゃない。
……じゃあ、やっぱり本当?
思い返せば、詩織はよく小説を読んでいた。主人公が「蘇る」——つまり、人生をやり直す話が大好きだった。そんな展開に、いつも羨ましさを感じていた。
(もし私も、もう一度やり直せたら……)
もちろん、現実ではあり得ないと分かっていた。
けれど、ほんの少しの期待を胸に、詩織は母に尋ねた。
「お母さん……今日は、何月何日?」
「どうしたの、変なこと言って。今日は五月十日でしょ?」
心配そうに答える母。
「いや、今年は西暦何年なの?」この日付?違う気がする、5月10日は間違ってないけど。詩織は最後の希望を抱きながら聞き出した。
「2007年よ」母上は娘を見るにつれ、何かがおかしいと感じた。本当に頭を打たれておかしくなったのか?
ベッドから飛び起きると、答えを聞いて完全に呆然としている娘には構わず、母上は直接病室を飛び出した。「先生!先生!……」
詩織はしばらく母上のことを考える余裕はなく、彼女が慌てて病室を出ていくままにした。
「2007年?本当に2007年なの?」詩織は覚えていた。当時自分は高校2年生で、もうすぐ3年生になるところだった。「本当に7年前に戻ってきたの?」
震える手を握りしめながら、詩織は信じられない現実を受け止めようとした。
その時、廊下の方から「コツ、コツ」と靴音が響いた。
詩織ははっとして顔を上げた。