【毎朝九時:監獄区への食事配膳は厳守。各貴人の食習慣を必ず遵守すること】
これは書類の最初の赤字で強調された内容だった。
時田菫が時計を見ると、まだ九時まで一時間ほど余裕がある。彼女は急いで身支度を済ませ、足早に厨房へ向かった。
辺境の黒溟星とはいえ、設備は驚くほど整っている。厨房ではロボットたちが規則正しく作業をこなしており、時田菫は簡単に朝食を済ませると、九時前に用意された食事コンテナをスペースポーチに収めて監獄区へと足を向けた。
前任監獄長の残した分厚い管理マニュアルによれば、黒溟星の監獄に収容されているのは、凶悪犯罪者ばかりではない。むしろ――精神力が極端に高く、崩壊寸前の強者たちだった。
だからこそ、彼らは「囚人」ではなく「貴人」と呼ばれる。
精神力が臨界を超えて崩壊したとき、莫大な破壊力をもたらし、理性を喪う。そんな存在を遠隔地に隔離するため、この監獄があるのだ。精神力の低い者なら、帝国の対処手段は多い。
事情を知った時田菫は、改めて自分の職務の難易度を思い知った。――どうりで前任者たちが皆、逃げ出すように辞めたわけだ。
とはいえ、今のところは何も起こっていないし、黒溟星の警備システムは最高レベル。ここでしばらく働いて資金を貯め、原作での無惨な最期を回避できれば……と彼女は考えていた。
通路を歩きながら、赤字マークのページを重点的に読み返していると、やがて監獄区のゲート前へ到着。
ゲートの前にはパトロール用ロボットがずらりと立ち並んでいたが、時田菫の職員データはすでに登録済み。彼女が近づくと、重々しい門は静かに開いた。
内部の獣たちが一斉に音へ反応し、視線を門口へと向ける。
コツ、コツと響く足音。時田菫はスペースポーチから重たい食事コンテナを取り出し、奥へと歩を進めた。
監獄内部は想像以上に広く、牢区画はまるで空洞のようにだだっ広い。
幾つもの防護扉を越え、ようやく最奥の収容エリアに辿り着く。
……そして目を疑った。
社員寮ですら十分豪華だと思っていたが、囚人用区画はその比ではない。内装はまるで高級別荘、二階建て仕様まである。唯一「牢」と呼べるのは、前方に張られた半透明の青い防護シールドだけだ。
「……高精神力の大物だから、待遇がいいのも仕方ないよね」
自分を納得させつつ、彼女は深呼吸を一つ。名前プレートを確認しながら、一つずつ食事を届けていく。
一号房――【斎藤蓮(さいとう れん)】。どこかで聞いた覚えのある名だが、すぐには思い出せない。
中を覗けば、ベッドの上に横たわるのは堂々たる白獅子。その傍らには執事型ロボットも控えている。
真っ白な毛並みに覆われながらも、逞しい四肢は隠しようがない。
蓮は尻尾をゆったりと揺らしながら、ベッドに身を丸めていた。
時田菫の視線に気づいたのか、彼は頭を少し上げ、深い蒼の瞳を遠くから向けてきた。
「……食事を届けてくれて、感謝する」
低く、心地よい声。磁力を帯びたように温厚な響きに、彼女は一瞬呆然とした――これが斎藤蓮なのだ。
設定を思い出す。精神力が崩壊に近づくと、獣人は原始形態へ退行する。
つまり、この白獅子の症状はかなり深刻だ。
「……ふわふわしてそう……」思わず撫でたくなる衝動を抑え、食事を置いて次の部屋へ。
二号房――【木村宇吉(きむら うきち)】。
彼女が目にしたのは、半人ほどの背丈を持つ大きな鳥。鏡の前で丹念に羽を整えていた。
体の大部分は白。額には炎のような紅色の模様、そして背に向かうにつれて橙黄に変わる長大な飾り羽――まるで絹布のように優雅で、美の極致だった。
「……極楽鳥……?」科普映像で見た鳥類を思い出すが、現実ではこんなサイズにはならない。獣人化の影響だろう。
彼女の熱っぽい眼差しに気づいた宇吉は、顎を高く上げ、ボタンを押す。
バシィッ――。青い防護シールドが瞬時に不透明化し、内部を完全に遮断。
「無粋な雌だな。目を慎め」
冷ややかな声が返り、時田菫は引きつった笑みを浮かべて食事を置き、そそくさと退散した。
三号房――【望月朔(もちづき さく)】。
扉は半透明だが、中は真っ暗。ロボットの青い眼光だけが浮かんでいる。
「……誰もいない?」
顔を近づけて覗き込んだ瞬間――
ギラリ。闇の奥で翠の竜眼が開いた。
「ひっ!?」
飛び退いた彼女の前に現れたのは、全身を漆黒に染めた巨大なパンサー。防護シールドの光に照らされ、緑の瞳は冷徹な威圧感を放つ。
ぞわり、と背筋が凍る。慌てて食事を置き、早足で離れた。
四号房――【中村夏帆(なかむら なつほ)】。
近づく前から、中から笑い声が聞こえた。
「ははっ、ビビりすぎだろ」
姿を見て、時田菫は思わず叫びそうになる。
「……っ、マヌルネコ!?でっかい……ふわふわ……!」
威嚇するように牙を剥き、「何見てんだよ」と唸るが、ふわふわの頬毛と長いヒゲは揺れていて、どう見ても愛嬌の塊。
少年めいた声と名前夏帆の響きに、彼女は胸を押さえて我慢。食事を置き、後ろ髪を引かれる思いで立ち去った。
最後、五号房――【桜井幻(さくらい げん)】。
そこには赤い九尾の狐が、湯気漂う温泉の中で寛いでいた。
九本の尾は水面に浮かび、一本一本が紅の光を帯びて艶やかに揺れている。
彼は顎を前足に預け、長い眼尻を緩やかに上げて笑んだ。
「新しい監獄長か。名前は?」
低く、熟成された酒のような声音。耳をくすぐる艶に、時田菫は思わず耳を押さえた。
「……時田菫です」
「ふふ、いい名だ」
喉奥で転がる笑声に、耳が痒くなる。彼女は赤面しながら名前プレートを見つめた――【桜井幻】。
(……幻?ぴったりすぎる……)
気まずさに耐えきれず、食事を置くと逃げるように立ち去った。
戻る途中、何度も誰かの視線を感じた。探るような、値踏みするような眼差し。
振り返れば、一号房の白獅子だけが穏やかな雰囲気を保っている。
斎藤蓮は優雅に前脚で食事道具を操り、ちらりと蒼眼を瞬かせてくる。
時田菫も思わず、緊張を解かれて微笑み返した。