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第1話:雪山の断罪
氷点下十数度の雪山で、彩花(あやか)の意識がゆっくりと浮上した。
七日間。谷底に閉じ込められていた時間が、まるで永遠のように感じられた。凍てつく寒さに震える身体、空腹で縮んだ胃、そして何より——響(ひびき)が自分を信じてくれるのかという不安が、雪よりも冷たく心を凍らせていた。
「発見しました!こちらです!」
護衛隊の声が響く。ヘリコプターの爆音が近づいてくる。
やっと……やっと助かる。
彩花は安堵の涙を流しそうになった。響が迎えに来てくれる。きっと心配してくれていたはず。咎音(とがね)のことは後で説明すれば——
「彩花!」
響の声だった。しかし、その声色に込められていたのは安堵ではなく、怒りだった。
ヘリコプターから降りてきた響の隣には、腕を三角巾で吊った咎音の姿があった。彼女は心配そうな表情を浮かべているが、その瞳の奥に一瞬、勝利の光が宿ったのを彩花は見逃さなかった。
「お前があちこち勝手に動き回るから、こっちは千人以上動員して探す羽目になったんだぞ!」
響の怒声が雪山に響く。彩花は言葉を失った。
違う。違うの、響。私は——
「何か言い訳でもあるのか?」
響の冷たい視線が彩花を射抜く。七日間の遭難で衰弱しきった身体に、さらなる重圧がのしかかった。
何を言っても信じてもらえない。過去の経験がそう告げていた。響は咎音の言葉しか信じない。いつだってそうだった。
「すみません……」
彩花の声は震えていた。反論する気力など、もう残っていなかった。
その時、護衛隊の一人が呟いた。
「それにしても、こんな場所で一人、よく狼に襲われなかったな。今日が初出勤の俺でも知ってるくらい危険な場所なのに」
咎音の瞳が一瞬、鋭く光った。
「やっぱり彩花姉って魅力的なんだね」
咎音の声は心配を装っているが、その言葉の裏に毒が潜んでいた。
「男の人って、彩花姉を見ると放っておけなくなるのかしら」
響の表情が一変した。怒りの矛先が、雪崩事故から彩花の貞操観念へと移った。
「おい、お前」響が護衛隊員を睨みつける。「今すぐクビだ」
「響兄、そんな……」咎音が慌てたように響の袖を引く。「彩花姉は気が強いだけよ。きっと何も……」
火に油を注ぐような言葉だった。
「気が強い?」響の声が低くなる。「七日間も男と二人きりで、何もなかったと本気で思ってるのか?」
彩花の心臓が凍りついた。救助される立場から、尋問される被告人へと転落していく。
「それに咎音の腕の怪我も、お前のせいだ」響が咎音の三角巾を指差す。「結婚式は一週間延期する」
一週間の延期。それは事実上の——
「雪咲(ゆきさき)」
響が吐き捨てるように言った。
「お前の両親が俺の命の恩人じゃなかったら、とっくに婚約なんか解消してる!」
彩花の世界が音を立てて崩れ落ちた。
愛情ではなく、恩義。それだけが二人を繋いでいた脆い糸だったのか。
咎音が小さく微笑んだのを、彩花だけが見ていた。