その言葉を口にするのに、彼女は全身の力を振り絞っていた。
「……何だと?!」
彰人が思わず声を張り上げる。自分の耳を疑ったのだ。
「離婚したいの」穂香は繰り返した。
顔には平静を装っていても、胸の奥では血を流すように痛んでいた。
八年間愛し続けた男と、一瞬で切り離す――それは皮を剥がされ、肉を裂かれるにも等しい苦痛だった。
「フッ……」
数秒沈黙したのち、彰人は鼻で笑った。「また戦法を変えたのか?」
腹痛を装った次は、離婚で脅そうというわけか?
どこまで芝居がかった女だ。
「本気よ!」
嘲りを感じ取った穂香は、無意識に背筋を伸ばした。
「……未練はないのか?」
「……」
穂香は言葉を失い、心が痛烈に刺された。
その言葉に胸が鋭く突き刺さる。暗に言っているのだ。――あれほど必死で俺と結婚したくせに、清水家の正妻の座を捨てる覚悟があるのか、と。
そうだ。
彼を愛している以上、未練がないはずがない。
でも、彼の心にはもう別の女が帰ってきてしまったのだ。
未練があろうと、手放さなければならない。
「未練なんてない」
涙に濡れた瞳を真っ赤にしながら、それでも力強く答えた。
だが――
「ハッ!」
彰人の冷笑はさらに深まる。
もう言葉を交わすのも面倒だと言わんばかりに、脱いだ上着をソファへ投げ捨て、そのまま二階へ上がっていった。
広いリビングは、再び凍りついたような沈黙に支配される。
彼女の言葉も、存在すらも彼にとって取るに足らない――そう示す態度だった。
いや、それどころか「どうせ彼女は俺から離れられない」と踏んでいるのだろう。
穂香は視線を落とし、指先の結婚指輪を見つめて苦笑する。
笑っているうちに、涙が大粒となって煌めくダイヤに次々と落ちていった。
……
翌朝。
彰人は階段を下りてきた。
いつもの癖でキッチンに目をやると
――眉間に皺を寄せた。
そこにいたのは穂香ではなく、家政婦の里奈だった。
彼の顔が曇った。
「旦那様、朝食のご用意ができております」
里奈が慌てて出迎える。
「穂香は?」彰人は尋ねた。
テーブルに視線を落とすも、食欲は湧かなかった。
彼女の用意する朝食は、味も栄養も、何より気持ちのこもり方がまるで違う。
穂香はレシピを必死に調べ、遠くまで食材を探しに行き、夜明け前に起きて胃に優しい粥を作ってくれる。
それでも、彼はほとんど口をつけなかった。
それでもなお、彼女は嬉しそうに続けていたのだ。
「奥様は、朝早くにお出かけになりました」
答えに、彰人の思考が途切れる。
早朝から出かけた?
一体どこへ……?
訝しむ間もなく、ポケットの携帯が震えた。
「……なんだと?!」
電話口の言葉に、彼の顔色は瞬時に蒼白から怒気へと変わった。
……
病院。
一般病棟。
穂香はベッドで昏睡し続ける兄を見つめ、胸を締めつけられる。
耳に入るのは叔母・斎藤雪奈(さいとう ゆきな)の責め立てだった。
「清水家の嫁だっていうのに、この程度の医療費も払えないの? 隠し貯金も宝飾も全部出した? だから何?旦那に頼めばいいでしょう?妻の金は夫の金。清水家にとっては斎藤グループの借金も、あなたの兄の治療費も、ほんの端金なのよ!」
「……私、清水彰人と離婚するつもりだから」
ぽつりと呟いた一言で、叔母の言葉がぴたりと止まる。
がちゃん。
手にしていたカップが床に落ち、乾いた音を立てた。
「……な、何ですって?離婚?!」
「ええ」
「どうして?」
「木村彩が帰ってきたから」
「それがどうしたの?」
一瞬驚いた叔母だったが、すぐに強い口調で言い返す。
「バカなこと言うんじゃないよ!あんたが退けば、あの女がのさばるだけ!あんたが座り続ける限り、あの狐は永遠にただの愛人よ!」
「……もう決めたの」
叔母の声色が尖る。
「穂香、正直に言うけど、この結婚は絶対に手放しちゃいけない!離婚したら再婚女よ?清水家ほどの家をもう掴めると思う?兄貴は昏睡、斎藤グループは一年で大赤字、清水家の後ろ盾がなけりゃ、借金どうやって返すの!治療費だって払えなくなって、あんたの兄はそのまま死ぬんだよ!」
「お兄ちゃんのことは、私が守る。心配しないで。治療費の当てもあるから」
穂香の声は揺るぎなかった。
……
病院を出て、心ここにあらずで車を待つ。
そこへ黒い高級車が滑り込むように停まった。
窓が開き、車内から冷ややかな視線が突き刺さる。
整った顔立ちは氷のように硬く、瞳は濃い闇を宿していた。
「乗れ!」
彰人の命令。
穂香は眉をひそめ、動かない。
「乗れと言った。三度は言わせるな」
その声は冬の氷雪のように冷たく、威圧感に満ちていた。
周囲の視線と叔母に見られることを避けたくて、
彼女は結局ドアを開けて乗り込んだ。
車が走り出す。
並んで座る二人の間に、言葉はない。
外は喧騒、車内は張り詰めた沈黙。
彰人は待っていた。
彼女が口を開くのを。
だが、いつも小鳥のように囀っていたはずの女は、今日は沈黙したまま。
一言も発しない。
時間だけが過ぎ、ついに彼の方が耐えきれなくなった。
「……指輪は?」
鋭い眼光が、彼女の白く細い、しかし空っぽの薬指を射抜く。
「売ったわ」
癖のように無意識に指先を撫でながら、淡々と答える。
――平然と罪を告げる態度に、
怒りが爆発する。
彼は彼女の手首を乱暴に掴み、炎のような眼差しで睨みつけた。「誰の許可で結婚指輪を売った?!」
「……私の指輪でしょ」
痛みに顔を歪めることなく、静かに言い返す。
「お前のだと?」
「あなたがくれた。だから私のもの」
その理屈に、彼は言葉を失う。
だが次の瞬間、強引に彼女の手を引き寄せる。
冷たい金属の感触が、再び薬指に嵌まる。
――売ったはずの指輪が、そこに戻っていた。
穂香の瞳に驚きが宿る。
彼はすぐにそれを買い戻したのか。そこまでして……。
だが、彼女にとってはようやく捨てた枷。二度と縛られたくないのだ。
指輪を外そうと手を動かした、その瞬間――
「外してみろ……命知らずめ!」
頭上から落ちる低い声は、氷刃のように鋭い。
彼女動きが一瞬止まる。
二年間、彼に逆らったことなどなかった。命令には従うのが癖のようになっていた。
けれど――
彼女は俯いたまま、再び指輪を引き抜こうとする。
「斎藤穂香!!」