男の低く掠れた声が、頭のすぐ上で響いた。
しかしその言葉が最後まで紡がれる前に、枕が勢いよく彼の頭に叩きつけられる。
彰人は一瞬で眠気を吹き飛ばされた。
目を見開いた先にあるのは、怒りに燃える水のような瞳。
「清水彰人、この最低男!」
彼女の罵声が響く。
彰人の端整な顔立ちがみるみる陰を帯びる。
ようやくうとうとしはじめたところを叩き起こされ、込み上げる苛立ちが一気に脳天へと昇った。
「どうしてあなたが、私のベッドにいるの!?」
彼女は叫びながら、慌てて前がすべて外れたルームウェアのボタンを留め始めた。
「寒いって言って、俺を抱きしめて離さなかったのはお前だろう」
彼は落ち着き払った声で、まるで当然のように答える。
「……っ」
零れ落ちる断片的な記憶が、蘇る。
間違いない。
昨夜は確かに――彼の言うとおりだった。
寒さに震え、彼の手を掴んでベッドに引き込み、必死で彼の服を剥ぎ取って……。
胸に身を寄せ、貪るようにその温もりを求めた。
だがあれは意識が朦朧としていたからだ。
自分の心からの願いなんかじゃない。
「卑怯者……っ。あ、あなたって本当に……恥知らず!」
歯を食いしばりながら罵る彼女の頬は赤く染まり、それが怒りなのか熱のせいなのか自分でも分からない。
腹立たしいのは、ただ彼のベッドにいたからじゃない。
今、この身体全体に広がる、あの妙な感覚のせいだ。
――彼女はもう少女ではない。
だからこそ、その違和感が何を意味するのか、痛いほど理解していた。
本気ではなかった。
だが、その「前段階」はすべて……
やったに違いない!
「俺が恥知らず?」彰人の黒い瞳が、危うげに細められる。
暖を取る道具のように扱われて、利息を少し取っただけだろう。
自分は不能者でもない。
あれほど必死に絡みつかれて、何もしない方がおかしい。
彼の理屈には、
一片の迷いもなかった。
穂香は怒りで胸がいっぱいになった。「私たち、もうすぐ離婚するのよ!」
「俺が同意したか?」
冷ややかな一言。
「同意しようがしまいが、私が正気じゃない時にあんなことをするなんて!」
「……どんなことを?」
声音に気怠い笑みを滲ませながら、彼は問い返す。
「っ……!」
口にするのも恥ずかしく、言葉が詰まる。
「ん?」
さらに顔を近づけてくる。
「や、やめてっ――」
反射的に後ろへ仰け反る。
そのままベッドから転げ落ち、後頭部を打ちつけそうになった。
「っ!」
間一髪。
彼の長い腕が腰を抱き留めた。
「離して!」
必死で突っぱねる。
だが彼はさらに力を込め、苛立ちを露わにした。
「死にたいのか?」
「ええ!いっそ落ちて死んだ方がマシ!」
その瞬間、男の顔が凍りついた。
まるで自分を毒蛇か猛獣でもあるかのように――
触れられるくらいなら死を選ぶと?
「……もう一度、言ってみろ」
細められた瞳が鋭く射抜く。
「私は――んっ……!」
最後まで言わせまいと、唇が塞がれる。
怒りを孕んだ荒々しい口づけが、嵐のように彼女を呑み込んでいく。
抵抗したい。
だが、男女の力の差は絶望的だ。
しかも病み上がりの身体では、とても抗えない。
彼女の小さな身体を押し伏せ、執拗に貪る。
震えるほど拒んでいるのに、その姿が余計に彼を煽る。
限界が近づいたその時――突如、澄んだ着信音が部屋に響いた。
「で、電話……っ、清水彰人、電話が鳴ってる!」
救われたように身を捩じる。
だが彼は意に介さず、唇を重ね続ける。
仕方なく彼女はポケットから携帯を抜き取り、
通話ボタンを押して無理やり耳元に当てた。
「彰人...」
甘く柔らかな声が、空気を切り裂いた。
木村彩だった。
彰人の動きが止まる。
冷たい視線が、眼下の彼女を射抜いた。
彼女はその視線を無視して、必死に隙を伺う。
だが当然読まれていて、逃げ道は与えられない。
身体が密着しすぎて、彼の存在を嫌でも感じてしまう。
羞恥と屈辱に震える彼女は、
反射的に膝を振り上げ――
不意に、膝が彼の股間に当たってしまった...
「っ...」
低い呻き声が漏れる。
その隙に彼女は身を起こそうとした。
だが次の瞬間、強く押し戻される。
「痛っ……!」
小さな悲鳴。
受話器越しに、甘い声が揺れる。
「彰人?彰人、どうしたの?」
彩の声音には心配が滲んでいた。
「……問題ない」
鋭い眼差しで動きを制しつつ、彼は静かに答える。
「どうした?」
「……足がすごく痛むの。病院に連れて行ってくれない?」
かすかな震えと共に、耐えるような声音。
「……もし忙しかったら、無理にとは言わないけど……」
「すぐ行く」
即答。
先ほどまで彼女を逃がさぬよう押さえつけていた腕が、ためらいなく離れていく。彩の名前が出た途端に。
その背中が、ためらうことなく部屋を出ていった。
取り残された彼女は、ぐしゃぐしゃの髪とくしゃくしゃになった寝巻きを整える。
心は...
以前ほど痛くなくなっていた。
そのうち、完全に麻痺できるようになるのかもしれない。
...
清水家の本邸。
広い客間で、彼女と美桜が向かい合っていた。
岡田美桜は悠然と茶を味わい、十分以上も焦らした末に、ようやく口を開く。
「あなた、青い湾から引っ越したそうね?」
精巧な茶碗を置き、視線を一瞥。
「ええ」
彼女は素直に頷いた。
青い湾――それは彰人と暮らしていた家。
「最近、彰人と何を揉めているの?」
声音は咎め一色。
清水家の人間に共通する癖。
自分は常に正しく、間違っているのは相手。
「離婚します」
静かな答えは、他人事のよう。
「……なんですって?」
予感はしていたはずなのに、実際に口から出ると岡田美桜は顔色を変えた。
「息子さんと、別れます」
「理由は?」
「ご本人に聞いてください」
「今、あなたに聞いているの!」声を荒げる。
彼女の冷ややかな態度が、さらに癇に障ったのだろう。
かつては従順に頭を下げていた女が、今は目を逸らさず答える。
「息子さんが婚姻中に浮気しました」
「……相手は?」
「木村彩です」
美桜の眉がぴくりと動く。
わずかな沈黙ののち、淡々と問う。「離婚を切り出したのはどちら?」
「私です」穂香は言った。
また沈黙。
やがて――説教じみた声が落ちた。
「斎藤穂香。夫が外に気を惹かれるのは、あなた自身にも原因があるのよ。少しのことで拗ねたり、すぐ離婚を口にしたりするから、余計に遠ざかってしまう」
「男なんて、外で遊ぶこともあるものよ。家に帰る気持ちがあれば、それでいい。清水家の奥さんなら、一つ目を閉じて、流すことを覚えなさい」
「……まるで、あなたのように?」