和久は小切手を取り出した。そこにはびっしりと並ぶゼロが続き、一目では数えきれないほどだ。「この金を受け取って、二度と中村家の前に姿を見せるな!」
愛美は小切手を手に取り、かざしてじっと眺める。赤い唇に軽く触れ、目尻がほころんだ。「ゼロが多いわね、これで一生暮らしていけるわ」
「俺の言う通りにすれば、これは全部お前のものだ」
「心が動くわね」
「なら、俺から離れろ」
「私に何をしろっていうの?」
「簡単だ。この金を持って家族全員で消えろ。特にお婆さんの前には、誰一人として姿を現すな」
一見すると簡単な取引だ。普通の人なら飛びつくだろうが、愛美にとってその額は取るに足らないものだ。「もっといい方法があるけど、聞いてみる?」
いつの間にか和久の指先には煙草が挟まれており、火をつけて軽く一服した。彼は無愛想に促す「話してみろ」
「私たちは既に一線を越えた。お婆さんや家族の目には、もう私が妊娠しているかもしれない。もし家族ごと姿を消したら、曾孫を抱きたい執念から、お婆さんは手を尽くして全世界に手を回すだろう」
少し間を置いて続けた。「お婆さんの実家の力は以前から耳にしている。もし本気で動けば、私たち一家は逃げおおせないだろう。そうなれば事態は手に負えなくなる」
和久は黙って聞き入り、短く問い返した。「で、どうするつもりだ?」
愛美は車の中で、安全に中村家に留まり証拠を掴むにはどうすればいいか考えていた。まさかその好機がこんなに早く訪れるとは思わなかった。「簡単よ。お婆さんに『あの娘は妊娠できない』と思わせればいいの。そうなれば私に執着しなくなる。そうなったとき、私が去るか残るかは、あなた次第、というわけ」
長期的に見れば、この策は確かに理にかなっている。ここ数年、和久は老夫人に命を脅されるように次々と妻を迎え、今や九人目だ。いつ終わるのか全く見当がつかない。
もしかすると、別の道があればお婆さんの古い価値観を変えられるかもしれない。
ほんの数分考えてから、「理屈はわかるが、お前が中村家に残るなら、ルールを作らなきゃならない!」
愛美はこの言葉を聞いて、途端に不機嫌そうな顔になった。親友のためでなければ、こんなに素直に話を聞くことはなかっただろう。「私はルールなんて嫌いなの。自分で提案したことは、自分でちゃんと実行するわ。自由が必要なの!」
以前の八人の婚約者たちは、それぞれ自分の目的があって和久と結婚した。しかし彼女たちには一つ共通点があった。それは彼を恐れていたことだ。だが、この橋本家の娘はどこか妖しい雰囲気をまとっていた。瞳の奥に宿る純真さと大胆さが、なぜか彼の心を妙にくすぐった。深い瞳が、目の前の美女をしっかりと捉えていた。
脳裏に昨夜のおぼろげな記憶が一瞬よぎった。
かなり酒を飲んでいたとはいえ、完全に自制心を失って彼女を求めてしまったのはある意味、彼女の「手腕」かもしれない。
相手の力は、意外と強かった気がする。
この女、何か隠しているに違いない。
「昨夜はお前が俺を誘惑したんだ!」
愛美の返事は率直で、どこか風変わりだった。「仕方ないわ。私もお酒を飲んでたし、大人だもの。美しいものを見たら、少しくらい邪な気持ちになるのは当然よ。でも安心して。私の中で『富』こそがいつだって第一位なの!」
和久は眉を上げた。「美しいもの?」
「あなた、けっこうイケてるじゃない」
「……」この女、本当に度胸がある。