朝。石畳に冷たい影が伸びる頃、俺は冒険者ギルドの扉の前に立っていた。
手元に残ったのは、わずかな銀貨。昨日の光景は、まだ耳の奥で生々しく反響している。
——バグ。
——F。
——不要。
深呼吸。扉を押す。酒と汗と油の匂いが押し寄せた。
中は朝から騒がしい。木卓を囲む冒険者たち、掲示板に群がる影、樽の蓋を足で蹴って笑う声。
俺は受付へ向かい、ジョブカードを差し出す。
「新規登録をお願いします」
金髪の受付嬢が笑顔で受け取る。だが次の瞬間、その笑顔が凍った。
「……テイマー。しかも、Fランク」
声が、思いのほか大きかった。
食堂の笑いがすうっと引き、代わりに別の種類の笑いが立ち上がる。
「おいおい聞いたか? 昨夜の“バグ王子”がご来店だとよ」
「王女様にバグ扱いされた男がギルドに来るとか、お笑いだな!」
笑いが輪を作り、輪が檻になる。
受付嬢の冷えた視線に、昨日のリリアーナの無関心が重なった。
父の声が蘇る——「不要だ」。
心臓が氷の手で掴まれたように凍りつく。
「規約により、Fランクは依頼の受注ができません。……雑用も、です」
「雑用も、です」——その言葉で心臓が沈む。
父に認められるために必死で努力した日々も、リリアーナの手を離さなかった昨日も、すべて無意味だったのか。
俺は何を守ろうとしていた? 積み上げたすべてが最初から不要だったと証明されたのか。
あの夜会、あの父の言葉……全部が一度に蘇り、心が千切れそうになる。
カードを受け取りかけた時、横から太い腕が肩を叩いた。
「おう坊ちゃん、皿洗いくらいなら俺の私物で雇ってやってもいいぜ?」
「死体運びもあるぞ。お貴族様の手、汚してみるか?」
笑い声。肩に置かれた掌が、ひどく重い。
振り払うほどの力も、言い返す言葉も出ない。頭の中に響くのはただ一言——“不要”。
受付嬢が小さく咳払いをした。業務のための、冷たく正しい音。
「お引き取りください」
その言葉は、刃ではなく、無だった。
「……せめて、嘆きの森への行き方を教えてくれないか」
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間——爆笑。
「ははっ!聞いたか? Fランクが森に行くだと!」
「自殺志願かよ! 魔物の餌になりに行くのか!」
「どうせスライムにすら殺されるぜ!」
笑いが渦を巻く中、ひとりの男が面白半分で肩を叩いてきた。
「いいぜ、教えてやるよ。街道を外れて北へ進め。三日も歩けば勝手に“嘆き”が聞こえてくる」
周囲がまたどっと笑う。
「ご丁寧に教えてやるなんて優しいな!」
「帰って来れたら奇跡だ!」
胃が焼けるような屈辱に震えながらも、その言葉を胸に刻むしかなかった。
笑い声と侮辱に塗れた道標——それでも今の俺には、それしかなかった。
爆笑とともに、地図を模した紙切れが投げ渡された。
嘲笑に塗れた案内。それでも、俺はそれを拾った。
——ここで終わるくらいなら、笑いものになってでも進むしかない。
街を外れた瞬間から、空気は湿り、温度は沈む。
嘆きの森。神の監視が薄い土地。噂と危険と、迷信の塊。
鳥も虫も鳴かない。沈黙が耳鳴りに変わる。ぬかるみに沈む足音だけがやけに大きく響き、枝の影が人影に見える。
背後に誰かがついてきているような錯覚が途切れず纏わりついた。
「……行くぞ」
独り言のように吐き、茂みを押し分ける。
枝は容赦なく頬を引っかき、泥は足を絡め取った。
どれくらい歩いたのか。額を汗が流れ、息が荒くなった頃——
ガサッ。
低い唸り。草の向こうで黄の双眸が灯る。
獣型の魔物。黒い毛並み、露出した牙。距離は十歩。
「……クソ」
木剣を構える。だが、影は矢のように迫ってきた。
牙が肩を裂き、熱い痛みが走る。視界が白く弾けた。
「ぐっ……!」
必死に木剣を振るい、魔物の顎を叩き飛ばす。よろめいた隙に距離を取る。
だが、左腕は血に濡れ、力が抜けていく。
魔物は円を描いて俺を囲み、唸り声を上げながら狩人のようにじわじわ詰め寄る。
その唸り声に、父の冷酷な叱責が重なった——「不要だ」。
「……終わりなのか」
木剣を振る。牙を受け止める。ギリギリと音を立て——
パキン。
木が裂ける音。
俺の唯一の武器が、あっけなく折れた。
「……っ」
絶望が喉を塞ぐ。父の言葉、リリアーナの視線、ギルドの嘲笑。すべてが重なり、頭が真っ白になる。
藁にもすがる思いで、俺は叫んでいた。
「テイム!」
掌に光。半透明の雫がぷるりと生まれる。
親指大のスライム。
「……は?ふざけるな……!」
魔物が唸り、跳ねた。
小さな影が、俺の前に飛び出す。
牙。衝撃。スライムは木肌に叩きつけられ、潰れかける。
「やめろ!無駄だ、もういい……!」
それでも、震える体で立ち上がる。
再び魔物の前へ、ぽてりと跳ね出た。
「……何やってんだよ……お前……」
涙とも汗ともつかぬものが視界を曇らせる。
小さな体が、俺を庇おうとしていた。
「そんなの……無駄だ……」
「……それでも前に出るのか」
「……俺と同じだな。誰からも必要とされなくても……」
「……必要とされない俺が、お前を必要としてるのか……」
その一瞬。魔物の視線がスライムへ逸れた。
「うおおおおおっ!」
俺は残った木剣の柄を両手で握り、渾身で魔物のこめかみへ叩き込む。
鈍い音。骨が砕ける感触。血の飛沫。
「倒れろっ……!」
二度、三度。石を拾い叩きつける。
汗で手が滑りそうになり、指が痺れ、力が抜けかけても、それでも叩き込む。
鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになり、声にならない叫びを上げながら、ただ何度も。
まだ立ち上がる魔物。呻き声。
スライムが後肢に張り付き、必死に気を引く。
四度目、五度目。
石を握り直す。這って拾い直し、血で視界が霞んでも、全力で振り下ろす。
石がこめかみにめり込み、ようやく巨体が崩れ落ちた。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
全身が震え、呼吸が焼ける。
視界の端で、スライムがふらふらと近寄り、ぷるりと揺れた。
「……俺を守ってくれたか」
声が震え、笑いなのか泣きなのか、自分でも判別できない。
こんな小さなやつに守られてる俺は……笑えるな……。
それでも——。
「……お前の名前は……スミオでいい」
スライムは、こくりと頷いたように震えた。
——こいつがいなければ、俺は死んでいた。
血が止まらない。肩が焼ける。
それでも、立ち上がらねばならない。
「行くぞ、スミオ」
ふらつきながら森を進む。鉄の匂いが鼻にまとわりつく。
やがて、闇の底に薄い光が滲んだ。
幾何学の線が、闇の中で組み上がっていく。円が重なり、星が結ばれる。
「……見つけた」
痛みと一緒に、胸が熱を持つ。
這う。爪で土を掴む。肩が裂ける。呼吸が焼ける。
スミオが前に転がり、かすかな光で足元を照らした。
「まだ……終われない……!」
指先が光に触れた瞬間、冷たいはずの光が熱を持った。
陣が眩い光を噴き上げる。
昨日の声も、父の影も、血の臭いも、一瞬だけ何もかも失重した。
「頼む……俺に、選び直す権利を……」
光に飲まれたその刹那、俺はもう嘲笑を思い出せなかった。