村の柵を抜けると、土の道が川沿いにゆるく曲がっていた。畑の端に人だかりができていて、みんなが手を振る。
昨日の女の子もいた。目を赤くして、唇をかみながら、両手をいっぱいに振っている。
「また来てね!」
「うん、また」
エリカが穏やかに返す。スミオは俺の肩から「ぽん」と飛び降り、子どもたちの足元でぷるんと震えた。
最後に女の子の掌へぺとんと頭を乗せ、もう一度だけ跳ねて戻ってきた。
「……帰れる場所が、ひとつできたかな」
胸の内で小さくそう言って、俺は手を挙げた。みんなの声が遠くなる。
風が畑を渡り、土の匂いが薄くなる。
道は東へ。村の長が言っていたとおり、川沿いを行けば街道に合流する。
しばらく歩いても、人影はなかった。
荷馬車の轍は古く、踏み固められた草に新しい跡がない。
鳥の鳴き声はするのに、反対に耳が冴えていく。
「……静かだな」
「うん。少し、変」
エリカが肩越しに森を見た。
スミオが俺の首元で小さく震える。
陽は高いのに、木々の奥の影だけが濃い気がした。
「気のせいか?」
柄——折れた木剣の柄を握り直す。
何も出てこない。草むらが揺れただけで、風の音。肩の力が抜ける。
昼を少し過ぎたところで、道から外れて河畔の平らな場所に腰を下ろした。
水の音が近い。石を集め、簡単なかまどを組む。スミオが小枝を集めては、ぽんっと落とし、エリカが火を点ける。
火はすぐに安定し、赤く呼吸を始めた。
パンを割り、少しの乾燥肉を温め、野草の葉をちぎってスープに落とす。煙がまっすぐ空に上がった。川面がきらきらして、風が涼しい。
「……居場所、か」
火を見ながら、口から出た。
「村に少し残してきた気もするけど、結局俺たちはまた流れ者だな」
「……そうね」
エリカは炎の向こうで小さく頷いた。炎の明かりが瞳に映る。スミオがスープの湯気をつついて「ぷる」。
「私はずっとそうだった」
「どういう意味だ?」
エリカは少し間を置いた。
風が一回通り、火が低く鳴る。
「私、もともとは物語の中で“悪役令嬢”の役割だったの」
「悪役……令嬢?なんだ、それ」
「主人公をいじめて、最後は追放される……そんな役。みんなに嫌われて、居場所をなくすように作られていた」
眉が自然と寄った。
「なんだよそれ。役ってどういうことだ?」
エリカはかすかに微笑んだが、目は揺れていた。
「詳しくは覚えてない。……でも、それが与えられた“役割”なの。
たぶん、そう動くように最初から決められていた。私が何を思っても、台詞みたいに」
言葉がそこで止まった。
火がぱち、と小さく弾ける。
スミオが俺とエリカの顔を順に見て、「ぷる」と短く鳴いた。
うまく返せない。胸のどこかがざわつく。
役割。決められた道筋。
俺は視線を落とし、パンの欠片を火のそばで炙った。
そのときだった。
川の音の向こう、木立の陰がひとつ、音もなく動いた。風ではない。草が内側へ吸い込まれるように沈む。
「——来る」
エリカの声が低くなる。スミオが肩から落ちて、地面に「たたっ」と構えた。
草むらを割って出てきたのは、狼でも熊でもない“造られた異形”だった。
皮膚の下には金属の管と黒い線がのぞき、節の多い関節が「カチ」と乾いた音を立てる。
動くたびに油の焦げた匂いが漂い、濁った目は生き物というより、冷たく決められた焦点だけを追っていた。
喉が勝手に動いた。
「……なんだ、こいつ」
足が止まらないまま前に出る。
折れ柄を正面に構えた。
スミオが先に飛ぶ。異形がこちらへまっすぐ走る。砂を蹴り、低く地をはうように伸びてくる。
スミオが目の前で「ばちん」と弾けた。透明な膜が瞬間だけ広がり、異形の顔に貼り付いて視界を遮る。動きが一拍止まる。
俺は横から折れ柄で首もとを払った。手応えは軽いが、進路は逸れた。
異形の爪が地面に刺さり、土が跳ねる。
すぐに向き直って、今度は俺に飛ぶ。
すぐ近く、避けられない距離。
「ユウキ!」
エリカの声。足元に光の線が走った。
俺の前に薄い壁が立ち上がる。
異形の額がぶつかり、反動で後ろに跳ねる。
スミオがその背中に体当たり。
「ぼよん」と跳ね返りながらも勢いを殺す。
異形は吠えない。ただ、呼吸のない動きでまた立ち上がった。胴の模様の円がかすかに光る。縁から黒い糸のようなものが「スッ」と伸び、地面に触れたところが焦げる。
「下がって!」
エリカが一歩踏み出して手を広げた。
空中に小さな円環が三つ、連なるように開き、内側へ向けて回転する。
異形が突っ込んだ瞬間、円環が重なって「かちり」と閉じ、前脚を固定した。
逃げようとした後脚にスミオが体当たりをし、
足元が揺れバランスが崩れる。
「今!」
俺は踏み込み、折れ柄で横から脇腹を押し出す。異形の体が半歩ずれて、地面に描いた光の線に片脚が乗った。エリカが掌を返す。
細い柱のような光が足元から立ち上がり、異形の動きを切る。
抵抗が一瞬だけあったが、すぐに力が抜けた。エリカが低く囁く。
「眠って」
光が薄らぎ、異形は膝から崩れた。
呼吸の音がないのは最初からだ。
次の瞬間、皮膚の下の硬いものがほどけるみたいに形を失い、砂のように崩れて消えた。
残ったのは、地面の黒い焦げ跡だけだった。
その地面には円と線で組まれた、意味のある図形が浮かび上がっていた。
薔薇の花弁を模した円環が黒々と焼き付き、その中心に歪んだハートが沈んでいる。
「……何だ、これ」
膝をついて覗き込む。焼けた土の匂い。
エリカがそっと近づき、焦げ跡の縁に指を浮かせる。スミオが「ぷる」と短く鳴いて、彼女の裾に寄った。
「……永遠の……舞踏会……?」
エリカがかすれる声で口にした。
「知ってるのか?」
「わからない……でも、見覚えがある。遠い昔に、こういう印を……」
彼女の指先がわずかに震える。
「……私を狙ってたのかな」
その呟きは焚き火の音よりも小さかったが、はっきり届いた。
焦げ跡はすぐに薄れ始め、砂を払うだけで崩れた。
残るのは心に引っかかる嫌な感触だけ。
「つまり、今のは自然に出た魔物じゃない。誰かが送ってきた」
「たぶん」
エリカは小さく頷いた。風が一度止まり、火の音がよく聞こえる。
「役割がどうとか関係ない」
言葉が先に出た。自分でも驚くくらい、まっすぐだった。
「お前はもう仲間だ。俺が守る。スミオもいる」
「ぷるん!」
スミオが勢いよく跳ね、俺の掌に頭をぶつけた。痛くはない。弾力が少し残る。
エリカは目を伏せ、すぐに上げた。弱い笑い。けれど、本当に少しだけ楽になった笑顔だった。
「……ありがとう」
火を少し足して、鍋を寄せる。
空に一番星が出た。川の音は変わらない。
さっきまでの視線の気配は、どこかへ消えていた。
片付けを終えたあと、焚き火の向こうでエリカが小さく呟いた。
「……でも、見つかるのかな、私の居場所」
言葉は炎に紛れて、すぐに小さくなった。
俺は答えを探し、見つけられず、代わりに薪を一本くべた。
火が静かに高くなる。スミオがその間に「ぺとん」と座り、二人の顔を順に見上げる。
「大丈夫だ」
やっとそれだけ言えた。うまい言葉ではない。けど、今の俺に出せるのはこれだけだ。
「うん」
エリカが短く返す。目はまだ少し揺れているが、炎の色を映していた。
夜はゆっくり深くなっていく。川面に星が増え、風が少し冷たくなる。焚き火を小さくして、寝床を整える。スミオは俺の腕の内側に「ぷに」と収まった。
「明日、街道に出たら、次の町まで行こう」
「うん。橋は流されてる方じゃない道ね」
「そうだな」
「ぷる」
短い返事が間に入る。三人で笑った。
まぶたが重くなる直前、空をひと目だけ見た。星がきれいだった。誰かに配られた役じゃなく、自分で選んだ歩幅で、また明日も歩けると思えた。
焚き火の残り火が小さく息をして、夜がそっと周りを包んだ。次の街へ向けて、静かな一歩がそこに置かれた。