警官は困惑した表情で高橋美咲を見つめ、彼女を脇へ連れて行き、小声で話し合いを持った。
話の内容は単純明快だった。まず林田陽子の社会的地位を匂わせ、次に美咲に冷静さを保つよう暗に促し、最後は示談での解決を説得するというものだ。
美咲の胸中に、深い屈辱感が沸き上がった。
彼女はわかっていた。林田陽子が故意に仕掛けてきたのだと。陽子は昔から彼女を疎ましく思っていた。最初は家柄の悪さを嘲り、次は妊娠できないことを責め立て、最後には愛人を公然と連れ込み、彼女を追い出した。彼女は御手洗彰仁のために全てを耐え忍び、離婚さえも従順に受け入れた。
だが今は違う。彼女はもう彰仁と離婚している。もはや以前の高橋美咲ではない。
深く息を吸い込み、目の前の警官を真っ直ぐ見据え、一語一語を明確に発した。「示談には応じられません。行政処分を求めます。そして、彼女に謝罪していただきます」
「高橋さん、それは……」
美咲は顔を背け、これ以上の交渉を受け付けない意志を明確に示した。
膠着状態が続く中、もう一台の高級車が到着した。車から降りてきたのは、美咲が最も会いたくない人物――御手洗彰仁だった。
警察が状況を収拾できないのを見て、陽子が息子に救援を求めたのだ。
彰仁は陽子を車に戻させると、美咲の前に歩み寄り、ゴールドカードを取り出した。「示談で済ませろ。2千万円だ。これで十分だろう」
「私を乞食だと思っているの?離婚の時だって、あなたのお金には一切手をつけなかった。今さらそんな汚れた金が必要だと思う?あなたの母親を車から降ろして、私に謝罪させなさい!」美咲は一歩も引かなかった。
「無理を言うな」彰仁は眉をひそめた。
無理を言うな――またその言葉か。最後に彼がそう言ったのは、鈴木愛奈が妊娠して家に現れ、彼女に離婚を迫った時だった。美咲は突然、全身の力が抜けていくのを感じた。さっきまで陽子に謝罪させようとしていた自分が、まるで道化師のように思えた。
「御手洗彰仁」彼女は彼の名を呼んだ。
「ああ」彰仁は俯せた目で彼女を見下ろした。
美咲は無理に口元を引きつらせ、皮肉たっぷりの口調で言い放った。「私が忘れられないの?宴会で石川明彦と対立し、トイレで意味不明な因縁をつけ、今度はここに現れて金を積むなんて。どうしたの?後悔しているの?」
彰仁の瞳にかすかな嫌悪の色が浮かんだ。「美咲、過度な思い込みはやめろ」
「妄想だと言うなら、さっさと消えてくれ!こっちに曖昧な態度を取らないで。そんなの、もう通用しないから!」美咲は心の痛みを必死に押し殺し、警官を睨みつけた。「私の意見は変わらない。しかるべき処罰を下してください。彰仁の汚い金なんか、いらない!」
そう言い終えると、彼女は眼前の彰仁を強く押しのけ、背筋を伸ばして反対方向へ歩き出した。
「美咲!」彰仁の怒声が背後に響いた。
美咲は聞こえないふりをした。数歩歩いたところで偶然タクシーが来たので、すぐに乗り込んだ。
「お嬢さん、どちらまで?」
美咲はぼんやりと窓の外を見つめ、行き先も定まらなかったが、ちょうど携帯が鳴った。石川明彦からの着信だ。
「美咲!まだかよ、二日酔いの薬を買うのに犬の腹ん中まで探しに行ったのか?今どこだ!」
「タクシーの中よ。さっき車にぶつかられて……」
「なんだって!ちょっと目を離した隙に事故に遭うなよ!とにかく病院に行け、今すぐ向かうから!」明彦は慌てて電話を切った。その口ぶりからは、今すぐ羽でも生えて飛んで来たいような焦りが伝わってくる。
美咲が電話を切ろうとした時、運転手が声をかけた。「お嬢さん、事故に遭われたんですか?大丈夫ですか?まず病院へお連れしましょうか?」
美咲の胸が熱くなった。口を開くと、声が詰まってしまった。「お願いします……ありがとう……」
病院で、美咲が包帯を巻かれ診察室から出てくると、すぐに明彦の声が聞こえてきた。