第06話:決別の調べ
美咲は家庭教師の前で、流暢な英語を話していた。
「Your pronunciation has improved remarkably, Miss」
「ありがとうございます」
一ヶ月前から雇った家庭教師は、優奈の紹介だった。海外での生活に必要な語学力を、着実に身につけている。
この一ヶ月、美咲は親友の優奈以外との連絡を一切断っていた。暁斗からのメッセージも、他の知人からの誘いも、すべて無視し続けている。
家庭教師が帰った後、美咲は引き出しからピンクダイヤモンドのブローチを取り出した。暁斗との思い出が詰まった品だが、もはや何の感慨も湧かない。
携帯電話が鳴る。隼人からだった。
「月宮さん、例の件ですが、希望価格で即金でお引き取りいたします」
「ありがとうございます」
取引は淡々と進んだ。隼人の声に含まれる微かな期待を、美咲は敏感に察知していた。彼の親切は純粋なものではない。それでも構わなかった。取引が完了すれば、連絡を絶てばいいだけのこと。
その時、携帯電話に新しいメッセージが届いた。暁斗からだった。
『美咲、この前は言い過ぎた。謝る』
珍しく謝罪を含むメッセージ。以前の美咲なら、心が躍ったかもしれない。しかし今は、画面を見つめても何も感じなかった。
一方その頃、暁斗は自分のオフィスで携帯電話を見つめていた。
美咲からの返信は来ない。既読にもならない。
「まさか、本気で怒っているのか」
暁斗は首を振った。美咲が自分の元から離れるはずがない。彼女は昔から従順で、どんなことがあっても最終的には自分の元に戻ってきた。
しかし、これまでにない沈黙に、かすかな違和感を覚えていた。
翌日、美咲は夜刀家の本家を訪れた。
重厚な門をくぐり、見慣れた庭園を歩く。別れの挨拶をするために来たのだ。
玄関で呼び鈴を押すと、朱里が現れた。
「あら、美咲さん」
朱里の声に、いつもの嘲笑が混じっている。
「兄と美影の仲を邪魔するのは、もうやめてくださる?」
美咲は静かに微笑んだ。
「ええ、知っていますわ」
朱里が一瞬、言葉に詰まった。いつもなら美咲は傷ついた表情を見せるはずなのに、今日の彼女は違っていた。
「兄は当てつけにあなたを利用しただけよ。本当に愛しているのは美影なの」
「そうですね」
美咲の穏やかな返答に、朱里の苛立ちが募った。
「あなたみたいな欠陥品と、美影を比べるなんて滑稽よ」
その瞬間、美咲は鞄から封筒を取り出し、朱里の足元に投げつけた。
「これをあの人たちに渡して。私はもう、夜刀家とは一切関わりません」
婚約解消の合意書だった。
朱里の顔が青ざめた。美咲が補聴器をつけていないことに、今更ながら気づいたのだ。
「あなた、まさか……」
「聴力は回復しました。でも、もう関係ありませんね」
美咲は踵を返した。朱里の動揺した声が背中に響く。
「待って!兄に何も言わずに……」
美咲は振り返らなかった。夜刀家の重い門を抜けた瞬間、風の音が耳に届いた。
自由の音だった。
体が軽くなる感覚を覚えながら、美咲は空港へ向かった。
搭乗待合室で、美咲は夜刀会長に最後の電話をかけた。
「会長、長い間お世話になりました」
「美咲ちゃん、急にどうしたんじゃ」
「海外留学することになりました。ありがとうございました」
電話を切った後、携帯電話が鳴り続けた。暁斗からだった。
美咲はハンドバッグの中で鳴り続ける電話を見つめた。
ためらうことなく、スマートフォンのSIMカードを抜き取る。
そして、ゴミ箱に捨てた。
この街とのすべての繋がりを、自分の手で断ち切るために。
最終搭乗案内のアナウンスが響く。美咲は迷いのない足取りで搭乗ゲートへ向かった。
機内に足を踏み入れた瞬間、新たな人生が始まった。