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第1話:崩れゆく虚構
白鳥結衣(しらとりゆい)は市役所のカウンターに立ち、手にした二枚の書類を見つめていた。戸籍謄本とアレキシサイミアの診断書。病院のシステムで夫の名前が表示されなかった理由を確かめるため、重い足取りでここまで来たのだ。
「朽木怜(くちきれい)さんとの関係について確認させていただきますが」
職員の声が遠くに聞こえた。結衣(ゆい)は頷き、戸籍謄本を差し出す。
「こちらの記録によりますと、朽木(くちき)怜(れい)さんとは三年前に離婚されています」
時が止まった。
「それは……間違いです」
結衣の声は震えていた。職員は困惑した表情を浮かべながら、画面を確認する。
「いえ、確実です。さらに申し上げますと、朽木怜さんは一年後に蛇喰魅音(じゃばみみおん)さんという方と再婚されています」
言葉の意味が理解できなかった。結衣は呆然と立ち尽くし、魂が抜け落ちたように職員を見つめる。
「結婚から……七秒後に離婚届が登録されています」
七秒。
たった七秒で、すべてが終わっていた。
結衣は市役所を出ると、街頭の大型ビジョンに映る夫の姿を目にした。怜はカメラに向かって爽やかな笑顔を浮かべている。
「これから家に帰って妻と夕食をとる時間です。家族との時間を大切にしたいんです」
周囲から称賛の声が上がった。愛妻家として知られる怜への賛美。だが、その「妻」は自分ではないのかもしれない。
結衣の脳裏に、甘い記憶が蘇った。
――あの日のプロポーズ。
「君と一生を共にしたい」
怜の優しい声。指輪を差し出す手。結婚式での誓いの言葉。すべてが嘘だったのか。
パーティー会場の廊下で、結衣はドアの影に身を潜めていた。魅音(みおん)の帰国歓迎パーティー。なぜ自分が招待されなかったのか、今なら分かる。
「結衣のことか?」
怜の声が聞こえた。
「何があっても、結衣はずっと俺のそばにいる。たとえ実際に結婚していなくても」
友人の笑い声が響く。
「お前も悪よのう。でも、あの子は気づいてないのか?」
「気づくわけがない。アレキシサイミアだからな。感情が鈍いんだ。都合がいいよ」
ドアの影でそれを聞いた結衣は、その縁を強く握りしめた。爪が割れても気づかず、血が滴り落ち、床の水滴と混じり合いながら広がっていった。予想していた痛みは訪れず、ただ底なしの苦しさだけが心に残った。
すべてが計算されていた。愛も、結婚生活も、すべて。
結衣はパーティー会場を後にし、近くのバーで酒を煽った。アルコールが喉を焼いても、心の痛みは和らがない。
「どうしたいんですか?」
隣に座った人物が声をかけてきた。結衣は振り返らずに答える。
「誰にも見つからない場所に行きたい」
「飛行機はないけど、船ならありますよ」