第3話:贋物の証明
結衣はスマートフォンの画面を見つめていた。昨夜の映像が頭から離れない。怜が魅音に手渡していたもの——それは結衣の首元で輝いているネックレスと全く同じものだった。
「世界に一つしかない一点物だ」
怜の声が記憶の中で響く。結婚記念日の夜、彼はそう言ってこのネックレスを結衣の首にかけた。優しい手つきで、愛情を込めて。
結衣は鏡の前に立ち、首元のネックレスを外した。小さなダイヤモンドが朝日を受けて煌めく。美しい。だが、もしかすると——
スマートフォンを手に取り、ネックレスの写真を撮る。宝飾業を営む大学時代の友人、田中に送信した。
『急ぎで鑑定をお願いします』
返信は思ったより早く来た。
『これは贋物ですね。市場価格で三千円程度の代物です』
画面を見つめたまま、結衣は乾いた笑い声を漏らした。
自分という存在も、妻という肩書きも、すべて贋物だったのだ。
――
電話が鳴った。怜からだった。
「結衣、急に二日間の出張が入った。すまない」
「お疲れさまです」
「俺がいなくても、ちゃんと食事はしっかりとるんだぞ」
愛情深い夫を演じる声。結衣は受話器を握りしめた。
「はい。気をつけて」
電話を切ると、結衣は無意識に車のキーを手に取っていた。
――
怜の会社の前で車を停めた。しばらく待つと、怜の黒いセダンが駐車場から出てきた。結衣はエンジンをかけ、距離を保ちながら後を追う。
車は市街地を抜け、山道へと向かった。霧雨が窓ガラスを濡らし、視界を曖昧にする。結衣の心臓が激しく鼓動していた。
やがて見覚えのある風景が現れた。
石段が続く古い寺。
結衣の血の気が引いた。
――あの場所だった。
義母の朽木響子(くちききょうこ)に無理やり連れてこられた寺。子宝祈願という名目で、結衣は何時間も石段を上り下りさせられた。
「男の子を産むまで、毎日でも来なさい」
響子(きょうこ)の冷たい声が記憶の中で蘇る。結衣の足は血豆だらけになり、膝は擦り傷で赤く染まった。
その時、怜が現れた。
「母さん、もうやめてください。結衣が可哀想だ」
優しい声で結衣を庇ってくれた。そして二人でこの寺に縁結びの錠をかけた。永遠の愛を誓って。
だが今——
結衣は車から降り、木陰に身を隠した。
怜が魅音を背負って石段を登っている。魅音は楽しそうに笑い声を上げていた。
「重くない?」
「君なら何キロでも軽いよ」
甘い言葉。かつて結衣にかけてくれた言葉と同じ。
二人は縁結びの錠がかけられた場所に辿り着いた。魅音が錠を見つける。
「これ、何?」
「昔の……もう関係ないものだ」
魅音は鍵を取り出し、錠を開けた。そして山の下へ投げ捨てる。
「もう彼女は『元妻』なんだから、あなたとの錠なんて残しておく意味はないわ」
代わりに新しい錠をかける魅音。
結衣は拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。
元妻。
その言葉が結衣の記憶を呼び覚ました。
――
結婚式の前日。怜が分厚い書類の束を持ってきた。
「資産関連の書類だ。サインをお願いします」
結衣は何も疑わずに、一枚一枚にサインをしていく。最後の一枚——それは離婚届だった。
婚姻届を提出してから、わずか七秒後。
法的な結婚生活は、七秒で終わっていた。
たった七秒。青春のすべてをかけて夢見た結婚生活は、七秒で終わった。
――
二日後、怜が帰宅した。手には崖に咲く希少な花の花束を持っている。
「テレビ番組のロケハンだったんだ。これ、君に」
「ありがとう」
結衣は花束を受け取った。その直後、スマートフォンに通知が届く。
魅音のSNS更新。
同じ花束を抱えた魅音の写真。首筋には赤い痕がついている。
『彼が去ったばかりなのに、もう恋しくてたまらない』
結衣は画面を見つめたまま、何も感じなくなった。
痛みを感じる神経が、麻痺していく。
これは病気の悪化なのだろうか。それとも——
「結衣?」
怜の声が遠くに聞こえた。
「どうしたんだ?顔が真っ青だぞ」
結衣は顔を上げ、夫を見つめた。この人は一体、何者なのだろう。