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第1話:裏切りの代償
「交通事故を仕組んでくれない?死者は私でいい」
白咲葵(しらさきあおい)は携帯電話を握りしめ、親友の相沢美緒(あいざわみお)にそう告げた。受話器の向こうで、美緒(みお)の息を呑む音が聞こえる。
「葵(あおい)……何があったの?」
「お願い、美緒。あなたしか頼める人がいないの」
葵の声は静かだったが、その奥に秘められた絶望の深さを、長年の友である美緒は敏感に察知した。
「分かった。兄が半月後に出張に出る。その時なら……」
「ありがとう」
電話を切った葵の頬を、一筋の涙が伝った。
――あの日のことだ。
十年前、葵は夫の朽木零司(くちきれいじ)を庇って交通事故に遭い、視力を失った。零司(れいじ)は彼女のために眼科病院を設立し、莫大な資金を投じて治療を続けてきた。五百二十一回。それが葵が受けた治療の回数だった。一度も成功することなく、希望と絶望を繰り返した十年間。
そして今日、ついに奇跡が起きた。
視力が戻ったのだ。
喜びに震える葵は、零司に報告するため彼の会社へ向かった。サプライズにしようと思ったのだ。十年ぶりに見る夫の顔を、この目で確かめたかった。
しかし、社長室で葵が目にしたのは――
零司が見知らぬ女性と抱き合い、情事に耽る姿だった。
葵の世界が音を立てて崩れ落ちた。十年間信じ続けてきたものが、一瞬で瓦礫と化した。
さらに衝撃的だったのは、その女性が我が家に出入りしていたことだった。家政婦たちは皆その存在を知っており、何より――息子の蒼(あおい)までもが、父親の不倫を黙認していたのだ。
みんな知っていた。彼女ひとりだけが、騙されていた。
玄関の扉が開く音で、葵は現在に引き戻された。零司が帰宅したのだ。
「葵、お疲れさま」
零司は優しく葵を抱きしめた。そのシャツに残る口紅の跡と、首筋の引っ掻き傷を、葵ははっきりと見ることができた。
「今日の治療はどうだった?」
葵は微笑んだ。完璧な、何も知らない妻の笑顔で。
「何も、変わってないわ」
その嘘は、葵の反撃の始まりだった。
半月後――果たして葵は、この重大な秘密を隠し通し、計画を成功させることができるのだろうか。