「お金持ちだからって偉そうにしないでくれる?」
秦野詩織はむっとして唇を尖らせた。
だが、孝宏は答えず、ただ余裕の笑みを浮かべるだけ。
結局――彼女は折れた。
「……一晩だけよ」
本当に、お金ってすごい。
彼女の小さな会社は経営難で、今にも潰れそうな状況だった。資金繰りに毎日頭を抱え、死神に会いに行きたい気分になるくらいだ。
「二晩」
彼は軽く言った。
「……わかったわ。でも約束して。変なことはしないで。まして触るなんてもってのほか」
彼女は彼をよく知っている。先に釘を刺しておかないと、必ず何か仕掛けてくる。
なにしろ、この男は昔から手癖が悪い。
……
二十分後。
孝宏の車は雨の降る夜の街を抜け、彼の高級マンションに到着した。
外はすでに暗く、雨が降っていた。
部屋に入ると、詩織はぐるりと見渡す。
――広い。けれど冷え冷えとしている。
彼は彼女をソファに座らせ、服を脱ぎながら疲れたように言った。
「ここでは好きにしていい。どこへ行っても、何を触っても構わない」
「……で、私はどこで寝るの?」
「客間はいくつもある。好きに選べばいい」
その声音は、さっきまでの冷たさが嘘のように柔らかく、どこか懐かしい。
ほんの一瞬――彼がまだ自分を大切に思っているのではないか、
そんな錯覚すら覚えた。
……まさか。
彼にとって自分は「遊び相手」でしかなかったのに。
「どこに行くの?」
背を向ける彼に問いかけると、
孝宏は足を止め、片眉を上げて振り返った。
「風呂。一緒に来るか?」
「僕は構わないよ」
詩織の頬が一瞬で赤くなる。
この男は、いつだって人を翻弄する。
自分も余計なことを聞いた。
5分後。
ソファに座っていた彼女の耳に、
けたたましい着信音が響いた。
孝宏の携帯だった。
詩織はちらりと見ると、画面には「石田霞(いしだ かすみ)」という名前。
鳴っては止まり、また鳴って――合計で五回。
相当切羽詰まった様子だ。
相手がかなり急いでいるみたい。
詩織は顔を曇らせ、逃げるように客間へ移動した。
理由は自分でも分からない。――ただ、胸の奥が妙にざわついていた。
ちょっとうるさすぎるだけだろ。
30分近く経過して……
客間で、詩織は窓の前に座り、外では雨が降り続けている。
彼女が物思いに沈んでいると、ドアが開いた。
孝宏が入ってきた。
片手にはウイスキーと二つのグラス。
そして彼の姿は――白いバスタオル一枚。濡れた髪から滴る雫が胸筋を伝い落ち、鍛え抜かれた腹筋へと流れていく。
まさに色気があり、挑発的だった。
精力的に見えた。
詩織は顔を上げると、ちょうど彼の視線と目が合った。
思わず視線を逸らす。
この男、本当に馴れ馴れしいんだね!
孝宏は歩み寄り、彼女の隣に座った。機嫌がとてもよさそうだった。
詩織はイライラして、軽く咳をした。
「……服、着てよ」
彼の体からは冷たい湿気と、特有の男性ホルモンの匂いが混ざり、彼女の心を乱した。
絶対わざとだ!
冷静にならないと、彼の誘惑に乗せられてしまう。
「何を今さら。お前、散々見ただろう?」
彼はニヤリと笑い、グラスを傾けた。
「それに、何回も触ったことがあるじゃないか?」
「俺の純潔はとっくにお前に奪われてる」
「……っ!」
言葉を失う詩織。
彼は酒を注ぎ、一杯を差し出した。
「飲む?」
「……何のつもり?」
赤い唇から、挑むような声音。
彼女の瞳はきらきらと揺れ、少し色気を漂わせ、人を惹きつけた。
「酔わせて……お前を奪うため」
磁石のような声色で、彼は平然と言い放つ。
彼は自分の考えを全く隠さず、目の奥には彼女を独占したいという思いが詰まっていた。
詩織は顔を逸らし、窓外に視線を逃がす。
「……さっき電話がかけてきたの」
「そうか?誰から?」
「石田霞って」
「ふん、で?出たのか?」
詩織は彼を見て、「出てない。――誤解されたら困るでしょ」
その瞬間、彼はぐっと腕を伸ばし、彼女の腰を抱き寄せた。
「俺たちの関係に、他人の目なんか関係ないだろ」
彼は頭を下げ、鼻先が触れそうな距離。
心臓が跳ね、詩織は慌てて押し返した。
「……やめて!私たち、もう他人よ」
その瞬間、孝宏の目が暗く沈む。
「他人?――かつて、あれほど近くにいたのに」
あの頃、彼女の目も心も、すべては自分に向いていた。
駄々をこねることもなく、わがままも言わない。
ただひとつ――いつも彼に寄り添って離れようとしなかった。
本当に、可愛くて、従順で。
友人たちも口をそろえて言った。彼を愛していて、絶対に離れるはずがない、と。
まさか、その彼女から別れを切り出されるなんて。
しかも、一切の未練を残さず、あまりに潔く。
詩織は伏し目がちに、感情を隠すように小さく言った。
「……あなたが言ったとおり、それは『かつて』のこと。私たち、もう四年も前に別れたの」
彼らの間には、過去以外、何も残っていなかった。
孝宏は黙り込み、窓の外を眺めながら静かにグラスを傾ける。
しばらくして、低く掠れた声を落とした。
「……俺は探したんだ」
誰も知らない。
彼女が去った三日目の夜、彼は狂ったように東京を駆け回り、彼女を探し続けた。
けれど、何一つ手がかりはなく。
彼女は意図的に彼から姿を隠し、遠ざかっていた。
どうして離れたのか、彼には分からなかった。
ただの拗ねだと、本気で思っていた。
詩織の心臓が、急に大きく跳ねる。
鼻先がつんと熱くなり、爪が食い込むほど拳を握りしめた。
「……探さなくてよかったのに」
彼が自分を探す理由なんて、どこにあるのだろう。
あのとき彼は結婚する気もなく、ただの遊びだったのではないか。
……きっと、彼にとってはまだ「遊び足りなかった」だけ。
孝宏は彼女を見つめ、そっと触れようと手を伸ばす。
だが詩織は立ち上がり、その手を避ける。
瞳には涙がにじみ、胸の奥に後悔が渦巻いた。
――やっぱり今日、彼の家に泊まるなんて、間違いだった。
再び彼に関わってしまったのは、愚かすぎる選択。
頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ逃げ出したかった。
「……もう、あなたのお金はいらない。私……ホテルに泊まるわ」
そう告げてドアに手をかける。
だが次の瞬間、手首を強く掴まれた。
孝宏は彼女の腰を片腕で抱き寄せ、逃げ道を塞ぎながら低く言い放つ。
「出て行く?――もう遅い」
「この家に足を踏み入れたからには、出ていく理由なんてない!」
その瞳には、傲慢さと独占欲が溢れていた。
詩織は必死に抵抗する。
「じゃ、じゃあ……あなたが出て行って!私は眠りたいの!」
「……一緒に寝ればいい」
そう言って、彼は彼女を軽々と抱き上げ、そのままベッドに放り投げた。
覆いかぶさる影。
詩織の目が慌てて、「藤井孝宏!やめて!酔った勢いで勝手なことしないで!」
彼の瞳は暗く深まり、声は震えるほど抑制が効いていた。
「……俺には、もっと狂ったことだってできる。試してみるか?」
顔を寄せ、彼女の唇をそっと奪う。
「詩織……四年だ。ずっと、お前が恋しかった。もう拒むな」
――そして、夜が更けていく。
……
翌朝。
目を覚ました詩織の全身を、激しい痛みが襲った。
ひどすぎる……まるで体がばらばらにされたみたいに。
昨夜の彼は、あまりにも容赦がなかった。
枕元を見やれば、すでに空っぽ。
男という生き物は本当に……終われば、さっさとズボンを履いて消えるのだ。