斎藤玉子は手の中の将棋の駒を盤に戻し、病室から出た。
出たところで、慌ただしく歩いてくる田中健太とばったり出会った。
「田中叔父さん、診察ですか?」
田中は玉子を見て、額の汗を拭いながら言った。「斎藤さん、お爺さんたちに処方した薬が何者かによって改ざんされたという連絡を受けた。患者さんが薬の変更で術後合併症を起こして亡くなったケースもあるそうで、確認に来たんだ」
彼は左右を見回したが、探している人が見つからなかった。
斎藤はそれを見て、眉を引き上げて尋ねた。「田中叔父さんは誰かと約束していたんですか?」
田中は悔しそうに言った。「ああ、前に斎藤社長にも話した医学の天才を見つけた。彼女を研究室に招きたいと思っているが、どうやら遅れてしまったようで、もう帰ってしまったな」
「田中叔父さんが天才と呼ぶほどの人なら、さぞ素晴らしい方でしょうね」
人が見つからないと分かり、田中はため息をついた。
「君が当初医学を学ぶ気があれば、君も天才だったろうに。残念だが、君は金儲けしか頭にないからな。」
斎藤は微笑むだけで何も言わなかった。
…
病院を出ると、運転手の丸山はすでに洗車を終え、梅子を恭しく待っていた。
「お嬢様、石川お爺さんにお会いになりましたか?」
梅子はうなずき、車に乗り込んだ。
洗車後、政府と軍関係者向けの特別仕様車だと確認できた。
車体には防弾装備が施されており、研究に加わった時の報告書や、先ほどの人々の石川お爺さんに対する態度から、彼女のお爺さんの身分を推定するには難しくなかった。
このような家庭は、林盛男が言っていた「貧しい」とは無縁だった。
おそらく特別な身分のため、特に控えめにしているのだろうか?
今日、石川お爺さんを殺そうとした人たちについても、彼女は見逃すつもりはなかった。
丸山はにこやかに言った。「旦那様はずっとお嬢様のことを気にしておられました。先ほど石川社長と奥様から電話がありまして、すでにご自宅でお待ちしてるそうです!」
梅子はうなずいた。
彼女は今、新しい家が林盛男の言うような貧しい家ではないことを知っていた。
さすがに心の準備はしていたものの、梅子は丸山が車を東京で最も高級な住宅街「中臣盛世リゾート」にまっすぐ乗り入れたのを見て、やはり一瞬呆気にとられた。
梅子:「…」
中臣盛世の最小面積のマンションでさえ、林家別荘五軒分の価値があるのだ!
しかも丸山が車を停めたのは、中臣盛世の別荘エリアだった!
別荘群が衆星のように月を囲むごとく、一号ビルを中心に配置されていた。
「お嬢様、つきました」
梅子は目の前の壮大な別荘と三百平方メートルを超える庭園を見て、驚きを隠せなかった。
三百平方メートルの庭園は大したことではないかもしれないが、ここは東京なのだ!
別荘の入り口では、石川東と佐藤久美子夫婦がすでに待っていた。
梅子が車から降りた瞬間、夫婦二人が手にしていた色とりどりのリボンがふわりと舞い上がった。
背後では大勢の使用人たちが花を捧げ持ち、色とりどりのリボンが空いっぱいに舞い散り、梅子の上に降り注いだ。それはさながら壮大な祝祭のようであった。
みんな一斉に大声出した。「お嬢様のご帰宅を歓迎いたします!」
梅子:「…」
これはどういう状況だろう?
丸山は石川夫婦の様子を見て、お嬢様が長年帰宅していなかったにもかかわらず冷遇されていないことに安心し、石川お爺さんに報告するために車で戻っていった。
梅子の体には舞い散ったリボンが付いていた。
石川東と佐藤久美子夫婦は一斉に駆け寄り、それぞれ梅子の手を取った。
久美子は直接抱きついた。
「梅子!やっと帰ってきたのね!ママはあなたが恋しくて、一日に三食と午後のお茶と夜食しか食べられなかったのよ!」
梅子:「…」
それって一食も抜いていないじゃないか。
この抱擁はとても温かかった。
記憶の中で、華は彼女をこのように抱いたことはなかったが、幼い頃から華が林雪子を抱きしめて慰める姿をよく見ていた。
梅子はてっきり、母親というのはそんなものだと思っていた。
なんと、ママの抱擁はこんなにも優しく、暖かく、春のようだったのだ。
久美子は十分泣いた後、梅子を離して注意深く見つめた。
梅子の顔は彼女に少し似ていて、白く柔らかい肌は皮を剥いだ卵のようで、立派に彼女の前に立っていた。
娘がこんなに美しく成長したのを見て、久美子はようやく止まった涙がまた流れそうになった。
娘を抱きしめて、この子がなんて痩せているのかと感じた!
身長が百七十センチ近くもあるのに、抱くと竹竿のように細かった。林家はいったいどうやって子供を育てていたのか、彼女の娘をこんなに痩せさせてしまったんだ。
丸山が電話で言っていたように、林家はとても貧しく、家族全員が小さな家に住んでいて、家政婦にさえ個室がないのだという。
「大変だったわね、梅子。でも家に帰ってきたからもう大丈夫よ。これからはママがあなたを守るわ!」
東も負けじと、隣で頷き続けた。「そうそう、うちは大金持ちというわけではないけど、腹いっぱい食べさせて暖かく着せ、欲しいものは何でも与えるくらいのことはまだできるぞ!」
梅子は東の後ろの芝生に停まっている高級車の列を見てびっくりした。
東は彼女の視線を追って、額を叩いた。
「あぁ、梅子は庭が好きなんだね?うちの庭は少し小さいから、パパがすぐにフランスの城とマナーハウスを買って、休暇に遊びに行けるようにするよ!」
久美子は梅子を引っ張って別荘に入りながら、慎重に尋ねた。「梅子、フランスの庭園とイタリアの庭園、どっちが好き?王室のでもいいわよ、ちょっと面倒だけど、彼らを先に追い出さないといけないけど」
梅子:「…」
王室の人々が自分の家に住んでいるのに、この夫婦は一言で追い出そうとするの?
「必要ありません。どこでもいいです。今は海外に行きたくないです」
久美子夫婦はすぐに頷いた。「わかったわ、じゃあ国内であなたに買ってあげるわ。ママはシャングリラに百三十三ヘクタールの庭園を持っているの、これからは梅子のものよ」
別荘内部は金ぴかで、使われている床タイルは一平方メートルあたり二百万円の某高級ブランド製、ゴミ箱は有名な高級ブランドで四十億円消費後の特典品、天井のシャンデリアは十二憶円相当、そして至る所に高価な骨董品や巨匠の作品が…
久美子の手首にあるヒスイのブレスレットは、先月国際市場で百二十億円という天価で落札された帝王級ヒスイだった。
このヒスイセットは、翡翠王が自ら切り出したものだ。一見平凡な原石から、完璧な極上ヒスイが見事に現れた。ネックレス、イヤリング、ブレスレット、数珠からなる一式で、どれもこれも最高級の逸品だ。
以前はオークションで多くの富豪が争奪戦を繰り広げ、最終落札価格は百三十五億六千万円に達した。
思いがけないことに、石川家がこれを落札していたのだ。
久美子は梅子の視線に気づいた。「梅子、このヒスイが好き?これからはあなたのものよ!」
梅子は久美子がすぐにも外して彼女につけようとする動きを止めた。「いいえ、私はアメジストが好きです」
彼女の年齢では、この帝王級ヒスイとは合わない。久美子はしとやかで美しく、立ち居振る舞いも端正で気品に満ちている。このヒスイを身に付けるとまさに似合う。
最も重要なのは、このヒスイセットの百三十五億円のオークション代金の八割が自分のポケットに入ったことを思うと、梅子はふと、少し呆気にとられたような気持ちになった…
傍らの家政婦は口をとがらせた。
このヒスイセットは雨子さんが気に入っていて、何度も奥様にねだったのに奥様は渡さなかったのに、この田舎から来た無知な子は良いものがわからないのだ。
アメジストなんてなんて大した価値はない、所詮ガラス玉に過ぎない。
久美子はすぐに頷いた。「アメジストこそ良いんだよ、霊性が宿っているからね。ママの部屋に透明感の良いバイオレットのセットがあるの、今夜届けてあげるわ!」
梅子は複雑な思いで聞いた。「…紫雲仙女?」
久美子は喜んで答えた。「そうそう、梅子も紫雲仙女を知っているのね!とても美しいわ、これからはあなたのものよ!」
梅子:「…」
彼女は突然、翡翠王が切り出した石がどれだけ石川夫婦のポケットに入ったのか知りたくなった。
東は梅子をリビングに連れて座らせた。
「あなたの部屋はもう準備できているよ。気に入らなければ、パパとママがまた別の部屋に変えるからね。本当は俺たちの部屋を使ってもらおうと思ったんだけど、家具が古くなっていたんだ!」
久美子は大量の食べ物を差し出した。「梅子、たくさん食べてね。あなたはとても痩せているわ。林家ではあなたに優しくしてくれた?ちゃんと食事をさせてくれたの?」
林家夫婦は彼女に冷淡だったが、食事は与えてくれていた。
梅子は手に持ったスープを見た。普通の白菜スープに見えるが、実は国家の宴席で供される名品「白玉白菜」だ。そのダシだけでも七桁の価値があるのだ。
さらに貴重なのは、国家の宴席のシェフを招かなければならないことで、これはお金だけでは実現できないことだった。