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88.88% 薬神のレシピ 〜救済か破滅か〜 / Chapter 8: 森の異変

Capitolo 8: 森の異変

朝のギルドは、瓶の音と紙をめくる音でにぎやかだった。壁の魔法灯がやわらかく灯り、薬草の匂いが薄く重なる。

「依頼が出ています」

受付嬢が紙束を示した。

「北西の薬草林。群青草の採取です。新人でも行ける安全任務」

リリィが目を輝かせる。

「やっと冒険っぽいお仕事ですね!」

ルークはうなずいた。

「薬は材料がなければ作れない。地味だけど大事だ」

「採取許可証と地図です。採取上限はこの枚数。日暮れ前に戻ってください」

受付嬢は淡々と告げ、最後に小声を添える。

「最近、森の方で小さな通報が増えています。用心を」

「心得ました」

ルークは地図を丸め、肩のバンドを軽く締め直した。

北西の薬草林は、王都から半刻ほど。

石畳が土道に替わる頃、風が緑の匂いに変わった。

森に入ると、薄青く光る苔が根元に点々と続き、低木の陰で丸い実が微かに灯る。

枝の上には夜鳴き鳥の巣。

昼でも静かに羽をたたみ、首だけこちらを見ている。

「見てください、群青草」

リリィがしゃがみこみ、スケッチ帳を広げた。

「葉脈が光ってます。かわいい……」

「袋はこっち。葉先を折らないように」

ルークは布袋と小さな鎌を渡す。

「根は残す。株を傷めると、来年の群れが減る」

二人は手分けして採り、量と場所を簡単に記録した。

ルークは葉の状態、土の湿り、周辺の虫の多さを書きとめる。

リリィは描いた図に小さな注釈を添えた。

しばらく進むと、前方から人の声。

「……少ないな」「いつもの群生、見つからない」

三人組の薬師パーティーだった。

腰に短剣、背に採取籠。ひとりがルークたちに気づく。

「お前たちも群青草か? 今日は妙に少ない。奥の方にあるって聞いたが」

ルークは周囲を見回す。

「この辺りで足りないなら、奥はあまり勧めない」

「でも、このままだと手ぶらだ」

焦れた顔の男が言い、仲間と目配せして奥へ進みかける。

リリィが小声で問う。

「どうします?」

「少しだけ様子を見る。危なければ止める」

道は細くなり、苔の光が途切れがちになった。鳥の声が少ない。風向きが変わり、土とは違う、うっすら甘い匂いが流れてくる。

「……結界粉の匂いだ」

ルークが足を止めた。根元の杭に、剥がれた魔法紙の破片。封印の紋が半分だけ残り、焦げあとが斜めに走っている。

「封じの印が破れてる。新しい傷だ。戻れ」

三人組の先頭が眉をひそめる。

「ほ、本当か?」

その時、低い唸りが奥から響いた。木々の合間に、灰黒い影が滑る。口元から薄い霧が流れ、草がしゅんと色を失った。

「毒霧狼……?」

リリィが息を呑む。

「この森にいるはず、ない」

ルークは短く答え、前へ出た。

「全員、口と鼻を布で覆え。風上へ下がる。リリィ、解毒の準備」

「は、はい!」

リリィは聖印を握り、解毒と癒やしの光を切り替える準備をする。

三人組は慌てて布を顔に当てたが、ひとりは手が震えている。

狼影が二つ、三つ。牙の間から淡い緑の霧。目がはっきりと光る。

「俺たちじゃ無理だ……!」

後方の男が声を上ずらせる。

「下がって」

ルークは腰の薬袋から小瓶を抜いた。

「まず、嗅覚を狂わせる」

地面の手前に瓶を投げ、白灰色の煙が立ち上る。樹脂の香りが鼻を刺し、霧の匂いを押し戻した。

「次、足を鈍らせる」

別の瓶を投げる。破片からぬめる透明が広がり、草の上に薄い膜ができた。

狼の一匹が踏みこみ、足音が鈍くなる。

「リリィ、後ろの二人。浅い霧でも喉が焼ける。軽く光を通して」

「『癒やしの光よ』」

リリィの掌から薄い光が流れ、咳き込んだ男の呼吸が整う。

狼の一匹が正面から跳んだ。ルークは低く構え、指先で小瓶の栓を弾く。

「麻痺」

瓶が割れ、霧に混じる細かな粉が狼の毛にまとわりつく。肩から脚へ、動きが一段鈍る。

だが側面から二匹目が弾けた。歯が近い。

三人組の若い男が固まる。 

「動け! 下がれ!」

ルークの声が短く通る。間に合わない——

「目、閉じて!」

ルークが閃光薬を投げた。白い光が弾け、狼が一瞬よろめく。

若い男は尻もちをついたが、牙は逸れた。

リリィがすぐに駆け寄り、擦り傷に光を落とす。

「大丈夫、今のうちに後ろへ!」

「まだ来る!」

左の茂みから、霧を濃く吐く大型が姿を見せた。肩が高い。牙も太い。群れの長だ。

ルークは一拍だけ息を吸い、薬袋の底から赤い封蝋の瓶を出した。

「ここで止める。全員、もっと下がれ。風上へ。耳をふさげ」

「ルークさん……!」

「大丈夫。樹を焦がさない配合だ」

ルークは赤瓶を握り、ほぼ地面すれすれに投げた。

破裂音は短い。炎ではなく、強い圧と熱だけが前方に走り、土が持ち上がる。

狼たちの足元が崩れ、空気が唸る。

大型は咄嗟に身をひねったが、前脚を滑らせて倒れ込んだ。

「今だ」

ルークは間を逃さず、麻痺薬の小瓶を二本、立て続けに砕く。

粉が大型の肩と首に降り、筋肉の震えが止まる。

残った二匹は体勢を立て直そうとして、ぬめる膜に足を取られた。

鼻先を振って匂いを嗅ぎ直すが、樹脂の香りに邪魔されて焦点が合わない。

リリィが小声で問う。

「追い払いますか?」

「追い払う。森の外には出さない」

ルークは最後に、狼たちの前方へ強い匂いの瓶を投げた。

獣の天敵の臭いを模した攪乱剤。

狼は鼻を鳴らし、徐々に後退する。

大型が無理に立ち上がろうとして、麻痺が勝って膝を折る。

群れは方向を変え、森の奥へ消えていった。

残るのは、割れた瓶の破片と、薄く漂う樹脂の匂い。静けさがゆっくり戻る。

三人組のひとりが、ようやく息を吐いた。

「……助かった」

リリィが残りの擦り傷を癒やしていく。光が落ちるたび、緊張がほどけた顔が一つ増えた。

先頭の男が深く頭を下げる。

「ありがとう。俺たちだけじゃ、無理だった」

もうひとりが、躊躇いがちに付け加える。

「……でも、薬にあんな使い方が……」

ルークは否定も肯定もしない。

「道具は使いようだ。人が傷つく前に止める。それだけ」

三人は顔を見合わせ、最後には素直に礼を言った。

「借りができた。ギルドに戻ったら、あんたの名を書いて報告する」

「名前はいい。戻る道で、群青草を少し見ていこう。君らは今日はここまでにした方がいい」

彼らを安全な道まで送り、採取を再開した。

群青草は、森の浅い帯に少しずつ残っていた。

ルークは標本用に数株、葉を傷めないように包む。

リリィはスケッチの端に「封印の痕」「匂いの変化」「鳥の減少」と小さく書き足した。

帰り道、破損した封印の杭をもう一度見た。焦げた断面が新しい。剥がれた魔法紙の縁は、刃物のようにきれいに切れている。

「本来、この森に毒霧狼はいない」

ルークが小さく言う。

「結界を越えたか、誰かが壊したか。偶然じゃない傷だ」

リリィは真顔でうなずいた。

「印の切り口、整いすぎです。……報告しないと」

「採取の記録と一緒に出そう。封印の再設置を勧める」

森を出る頃、空は明るい。

王都の尖塔が遠くに見え、輸送獣が影を落とす。風はもう毒を含まない草の匂いだ。

ギルドに戻ると、受付嬢が顔を上げた。

「お帰りなさい。早かったですね」

「群青草、規定量。採取記録と、別件の報告」

ルークは地図に書き込んだ印とメモを差し出す。

「北西の林で封印の破損。毒霧狼の出現。応急の対処で追い払ったが、再設置が必要」

受付嬢の目がわずかに広がる。

「……毒霧狼? あの林に?」

「はい。被害はなし。現場に破損した杭と魔法紙の残骸」

「確認班を出します。あなたの記録は薬師長にも回します」

後ろで帳面をつけていた若手が、ひそひそ声を漏らす。

「毒霧狼を追い払ったって?」

「爆薬か?また?」

「いや、あの人は爆発だけじゃない。光とか、匂いのやつ……」

受付嬢が依頼書に判を押し、群青草の受領を記す。

「危ない場面で助けてもらったと、先ほど別パーティーから報告が来ています。……あなたのやり方は賛否がある。でも、現場は見ているようです」

リリィが肩をすくめ、微笑んだ。

「今日も誰か、助かりました」

ルークは短く頷く。

「封印が戻るまで、あの林の任務は控えた方がいい。注意喚起は?」

「すぐに回します」

紙仕事を終え、外に出る。

夕方の風が少し冷たい。街路の魔法灯が順に灯り、香辛料の匂いがまた濃くなる。

「ルークさん」

「なんだ」

「毒霧狼って、北の深林にしかいないはずですよね」

「そうだ。少なくとも、この群青草の森では聞いたことがない」

リリィは少し眉をひそめる。

「じゃあ……やっぱり封印が壊されたせい、ですか?」

ルークは短くうなずいた。

「偶然じゃないだろうな。誰かが意図的に」

「薬師の仕事が増えそうですね」

「その覚悟は必要だ」

二人は並んで歩き出す。鞄の中で群青草がかすかに擦れ、やさしい草の匂いが立った。森の封印は壊れていた。偶然か、故意か。答えはまだ出ない。

——けれど、やることは変わらない。

救える命を、目の前から救う。それから、原因に手を伸ばす。

王都の鐘が一度鳴った。空はゆっくりと橙に変わり、石畳に長い影が伸びる。


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