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第1話:裏切りの代償
退院手続きを終えた刹那(せつな)は、病室に忘れ物を取りに戻った。扉の前で足を止める。中から聞こえてくる声に、心臓が凍りついた。
「暁(あかつき)、あなた最低よ!」
響(ひびき)の怒声が廊下まで響いている。
「刹那に嘘をついて骨髄を提供させるなんて......しかも蝶子(ちょうこ)と体外受精まで!一体何を考えているの?」
刹那の手が震えた。骨髄提供?体外受精?
「仕方なかったんだ」暁の声が低く響く。「蝶子だけが適合者だった。それに、蝶子のおばあさんを安心させてあげたかったんだ」
「それが理由?」響の声がさらに鋭くなる。「そもそもあなたが刹那に近づいたのだって、月城(つきしろ)の次男への当てつけでしょう?八年前のこと、忘れたとは言わせないわよ」
月城の次男......陽介のこと?
刹那の脳裏に、十五歳の自分が浮かんだ。陽介に告白された直後、突然現れた暁。優しい笑顔で近づいてきた彼の真意が......。
「響、頼むから黙っていてくれ」暁の声に苛立ちが滲む。「全部手配済みだ。刹那は一生、蝶子ちゃんの妊娠を知ることはない。将来のことだが、この八年で刹那の存在には慣れたし、結婚してあげるつもりだ......」
結婚してあげる?
刹那の世界が音を立てて崩れ落ちた。
八年間。五年間の介護。献身的な愛情。全てが嘘だったのか。
足音が近づいてくる。刹那は慌てて角に身を隠した。暁と響が病室から出てくるのを見送ってから、何事もなかったかのように病室に入る。
「お疲れさま。手続き、終わったよ」
振り返った暁の笑顔が、今は仮面にしか見えない。
「ありがとう。帰ろうか」
車内で暁が結婚式の話を始めた。
「来月あたりに式を挙げようと思うんだ。刹那の好きな教会で......」
声が遠くに聞こえる。窓の外を流れる景色を眺めながら、刹那は過去を振り返った。
十五歳で出会った暁。事故で足を悪くした彼を、五年間支え続けた。胃の病気だと言われて入院した時も、彼は毎日見舞いに来てくれた。
胃の病気......それも嘘だったのね。
骨髄を提供するための口実。影山(かげやま)蝶子のために。
深夜十二時。
暁のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、刹那の心が完全に凍りついた。
『愛しき蝶子ちゃん』
「ごめん、急用だ。すぐ戻る」
暁は慌てて家を出て行く。
刹那は震える手でスマホを取り出した。母親の番号を押す。
「お母さん?私よ、刹那」
「こんな夜中にどうしたの?」
「龍胆(りんどう)家との縁談......受けます」
電話の向こうで母親が息を呑む音が聞こえた。
「本当に?でも刹那、龍胆家と夜神(やがみ)家は敵対関係にあるのよ。暁さんが......」
「七日後に空港へ向かいます。すぐに入籍の手配をお願いします」
「刹那......」
涙が頬を伝った。でも声は震えていない。
「もう一生、夜神暁の顔なんて見たくない!」