伊藤彰人(いとうあきひと)は布団をめくり、自分の体に目を落とした。
浮かび上がる痕跡を見た瞬間、眉間の皺はさらに深くなる。
――さっき目を覚ましたときから、どこか妙に生々しい夢を見ていた気がした。まるで、春の夢でも見ていたかのように。そして今、確信に変わる。あれはやっぱり……春夢だった。
こんな夢を見るのは何年ぶりだろう。若い頃にはたまにあったが、それはいつも靄のかかったような、現実味のない感覚でしかなかった。だが――今回のそれは違った。あまりにもリアルで、息遣いや温もりすら残っている気がする。
女の顔は思い出せない。けれど、しなやかで儚げな身体の輪郭だけは、どうしても脳裏から離れてくれなかった。
目を細め、無意識に夢の残滓を追いかけていたそのとき――
「ドンドンドンッ!!」
扉が激しく叩かれ、慌てふためいた声が飛び込んできた。
「彰人様、大変です!海斗様が……海斗様が亡くなられました!」
思考が、一瞬で吹き飛んだ。
彰人は慌てて脇にあった服を掴み、乱暴に身にまとって扉へ駆け寄る。勢いよく扉を開け放ち、顔色を険しくしながら、そこに立つメイドの肩を掴んだ。
「……今、なんと言った!? 兄さんが……どうしたって!?」
肩が外れそうなほどの力にメイドは顔を青ざめさせながら答える。
「彰人様……海斗様が息を引き取られました。老夫人はその場で気を失われ、今は病院に運ばれています。夫人は泣き崩れながら海斗様の身体を抱いておられます。旦那はまだ戻られていません……皆、彰人様の指示を待っております!」
「…………」
信じられるはずがなかった。兄が、突然――?
彰人は暗い影を落とした表情で女中を突き飛ばすように押しのけると、屋敷の外へ駆け出していった。
、
海斗の葬儀はすぐに執り行われた。 だが、その間も美月は伊藤家の一角にある別荘に閉じ込められたままだった。
葬儀に出席することは許されず、外に出ることもできない。常に四人の女中と四人の護衛が交代で見張っており、監視は一瞬たりとも途切れない。
一週間は瞬く間に過ぎ去り――
葬儀も終わった。
その朝、目を覚ましたばかりの美月は女中から告げられた。「少ししたら、夫人にお会いしていただきます」
この一週間、彼女はただ閉じ込められるだけの日々を過ごしていた。逃げ出したい気持ちは山ほどあったが、機会は一度も訪れなかった。
だからこそ、考え続けた。――自分を救える可能性があるのは、伊藤家で最も発言力を持つ夫人だけ。ならば、会いたい。説得して、この屋敷から出してもらわなければ。
美月は抵抗しなかった。朝食を取ったあと、数人の女中と護衛に囲まれながら伊藤家の本邸へと向かった。
幾つもの小径を抜け、別荘群を横切り、ようやくたどり着いたのは――伊藤家最大の主宅の前。
「佐々木さん、ここで少々お待ちください。夫人にお取り次ぎしてまいります」先導してきた女中がそう言って邸内へと消える。
美月は黙って前方を見つめていた。
だが、その姿を――主宅の二階から、数人の視線が見下ろしていた。
「彩香、あれが伯母様が一海斗お兄様のために探した代理母って子なの?」女性の声が静かに響く。
伊藤彩香(いとうあやか)、海斗と彰人の妹は、その言葉を聞いた瞬間、顔色を険しくし、憎悪を込めて吐き捨てた。「そうよ。あの女のせいで、お兄様は数ヶ月も早く……死んでしまったの。あの人殺しめ……母様が“兄さんの子を宿している可能性があるから手を出すな”って言うから我慢してるけど、そうじゃなかったら、とっくに八つ裂きにしてるわ!」
先ほどの女性はそんな彼女を慰めるように、そっと腕を抱いた。「彩香、落ち着いて。あんな女、お金のために代理母になるような人間よ?まともなはずがないじゃない。そんな相手に本気で怒る価値なんてないわ」
彼女は一瞬微笑むと、声を落として続けた。
「――もし、どうしても気が済まないなら。私に考えがあるわ。ただの『お仕置き』程度で、やりすぎにはならない方法。……でも、条件がある。このことは私とあなた、二人だけの秘密よ。伯母様に知られたら、嫌われてしまうもの。そうなったら、私は彰人様に近づけなくなるから」