楓が去っていった。
美咲はカフェのソファに沈み込み、長く細い吐息を零した。
店内は一定の温度に保たれているはずなのに、彼女の全身は凍りつくように冷たい。血管を流れるのは血ではなく、砕け散った氷片のようだった。
頭の中まで凍えてしまいそうだ。
――正直なところ、自分があとどれだけ持ちこたえられるのか、彼女自身わからなかった。
これほどまでに疲弊したことは、一度もなかった。
尊厳を踏みにじられ、地面に押しつけられ、好き放題に蹂躙される。そんな屈辱を、自分がここまで耐えられるとは想像もしていなかった。
もし羽田陽菜(はねだひな)がここにいたなら、きっと目を疑っただろう。
かつては誇り高く、誰よりも自尊心を大切にしていた京極美咲が、今ではこんなにも卑屈に成り下がっているのだから。
美咲は額に手をあて、こめかみを強く揉みほぐす。過去の記憶を追い払うように。
――また思い出してしまっていた。
だめだ。
過去は過去。どれだけ自由に、どれだけ華やかに生きてきたとしても、もう戻ることはできない。
もし過去ばかりを見つめれば、現実に耐えきれず、自ら命を絶つことになりかねない。
それだけは許されなかった。
彼女の肩にはあまりに多くの命がかかっている。彼女ひとりが死ねば、家族ごと道連れになるのだ。
京極家をここまで落とし込んだのは彼女自身。――死んで逃げるなど、あまりにも無責任だ。
そのとき、テーブルの上に置かれたスマートフォンが突如として震えた。
ディスプレイを確認した瞬間、彼女は小さく目を見開き、慌てて通話ボタンを押した。「杉山院長、どうしました?」
受話口から聞こえてきたのは、柔らかく穏やかな声だった。「京極さん、今月分のお父さんの介護費用、今日中に支払ってくださいね」
美咲は少し戸惑った。「……まだ三日、猶予があるはずでは?」
これまで支払いは月初で済ませてきた。残り三日とはいえ、院長自ら催促してくるのは初めてだった。
「京極さんが最近、少し事情に困っていると耳にしましてね。ご存じでしょう、介護は一日十万円。うちは慈善事業ではありませんから、一日たりとも赤字は出せないんですよ。」
――やはり。篠原青斗に狙われていると知って、不安になったのだ。
美咲は手をぎゅっと握りしめ、張り詰めた声を絞り出す。「杉山先生……父がまだ元気だった頃、あなたは兄弟のように付き合っていたじゃありませんか。京極家が傾いた今、たった一日の費用すら惜しいと?」
次の瞬間、院長の声色が冷たく変わった。「美咲、もし私の病院でなければ、この桐城でどこが京極家の病人を受け入れてくれると思う? お前が誰を敵に回したのか、いい加減わきまえなさい!」
美咲は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして低く落ち着いた声で答える。「……わかりました。月初までには必ず払います。一銭たりとも欠けることなく」
「いいだろう。だが約束を違えれば、すぐにでもお父さんを病院から追い出すぞ」
美咲は返事をすることなく通話を切った。額を押さえ、唇を強く噛みしめる。血の味が広がったとき、ようやく昂ぶった感情が静まり、顔から険しい色が消えていった。
彼女はもう一度深呼吸をし、スマートフォンに表示された時刻を確認する。その瞳に影が落ちる。やがて無言で立ち上がり、カフェを後にしてタクシーを拾った。
「A&Mインターナショナルへ」
*
かつて「京極グループ」と呼ばれた会社。いまは篠原青斗の手に渡り、「A&Mインターナショナル」と名を変えていた。
半年の間に事業は拡大し、往年の京極健太の栄華すら軽く凌駕していた。