退院してからまだ一時間半も経っていないのに、灯はもう自宅へ戻っていた。凪の手際良さで、幸い個室の特別病棟を一つ確保してもらえたらしい。
「なんで退院手続きを私が来る前に済ませてるのよ――しかも流産だけじゃなくて、内腿の打撲に軽い脳震盪まであるって。よくそんな状態で退院したわね?自殺志願者か何か?渡辺の夢で命を刈り取られに急いでるの?」
凪は薬を煎じながら、枕元の灯に向かって容赦なくまくし立てる。
灯は非を悟ってしどろもどろに話題をそらす。
「まあ、大丈夫だって……医者は自宅療養でいいって言ってたし、薬はちゃんと取りに来ればいいって。今週中に離婚の手続き進めたいなって思ってるの」
凪は薬を灯の手に押し付け、椅子を引いてベッド脇に腰掛けると、法廷に立つかのような真剣な構えで質問を続けた。
「財産分配は渡辺と話したの?車は誰の名義、家は誰の名義、会社の株式はどうするの、配当は?離婚の名目は何?将来の養育費はどうするんだ?」
灯はぽかんとした顔で答える。
「え、えっと……そんなの半分こでいいんじゃない?」
凪は白い目を向ける。
「前に調べたんだよ。今のマンションも車も、全部婚前財産だって。お前、1ミリも取り分がない可能性高い。株は別かもしれないけど、結婚してから渡辺の名義で会社がいくつも増えた。上場した会社も一つあるし、渡辺家の基盤と合わせれば、ある程度の株や配当は取れる。でもお前の父親はこの数年、ずっと渡辺家に頼って生きてきたんだろ?」
「ちょっと待って!」
灯は疑わしげに凪を見た。「どうしてそんなこと調べてるの?」
「もちろんあなたの離婚の準備よ!まさか渡辺彰とずっと添い遂げられると思ってたの?」凪は当然のように答えた。
灯は針で突かれた風船のようにしゅんと肩を落とし、枕にもたれかかる。
「どうでもいいよ。数千万円くれれば満足だ。弁護士軍団に『身一つで出て行け』なんてやられたくないし、父の借りも全部吐かせればいい」
凪が遠慮なく問い返す。
「じゃあ、お腹の子は?」
少しためらいながら凪は続ける。「それでも父親としての責任を問えば多少の賠償は取れるはず……」
灯は首を振った。
「いい。もう、あの人にこのことは知られたくないの」
話はそこでスッと途切れた。
凪は余計なことを口にした自分を悔やみ、灯は話題を変える。
「ちょっとお腹すいた。何か食べ物ない?」
「あるよ!看護婦さんに聞いたら白粥が出るって。ここで寝てなさい、買ってくるから!」
そう言うと凪は颯爽と外へ飛び出した。灯はふっと笑って少しだけ心が和らぐ。こんな不運なときでも、親友がそばにいてくれるのはありがたい。
しばらくぼんやりしてから、灯はスマホを取り出してゲームでも、と思ったが、凪の携帯がないことに気づく。
夜食を買いに行くにも、頼む相手がいない。
仕方なく灯自身がナースステーションを探すことにした。
だが病院内の構造がやたら分かりにくく、単室の廊下は迷路のようだ。
十数分さまよって、灯は方向音痴であることを自覚し、元来た道に戻ることにした。
そのとき、背後で「カチャ」という小さな音がした。ドアが開いたのだ。テレビで何度も見慣れた例の声が、背後から聞こえてくる。
「──あら、森田さん、あなたですか?」
灯は足が止まった。がっくりと歯を噛んで振り返ると、そこには――須藤夏蓮の、整った柔らかな顔立ちがあった。
ぎこちなく笑って手を振る灯に、スーはそっと手で口元を覆いながら軽く笑う。
「こんなに心配して病院まで来てくれたの?わざわざお疲れさま」
?
夏蓮はゆったりとした余裕のある表情で続ける。
「渡辺があなたを捨てようとしているって、私は帰国してすぐ気づいたのよ。だからあなたが私の情報を嗅ぎ回しているんだって確信してたの。必死に私のことを探るために、ここまで来たんでしょ?」
夏蓮の目はすべてを見透かすようで、灯を上から下まで二度見して肩をすくめる。
「噂と同じね。つまらなくて、平凡で──」
まるで品定めするようなその視線に、灯はむず痒くなった。
思わず髪に手をやり、皮肉めいた笑みを向ける。
「須藤さん、ドラマの見すぎじゃない?自分を主人公だと思ってるところ、まるで恋愛妄想症のレベルよ」
もう一度間を置いて、適度に驚いた表情を作る。
「それに、須藤さんがここに来たって……精神科の見学にでも来たのかしら?」
周囲の情報では、渡辺の“奥さん”はおとなしくておどおどしているだけの平凡な女、外ではいつも渡辺の後ろでうなずいているだけ──だったはずだ。それが今日のスーは口が鋭い。どこか間合いを測るような冷たさがある。
夏蓮は微笑み、低く言った。
「彰の母さんも言ってたわ。小さな家柄の出身だと教養もなかなか身につかないものね。奚さん、初対面の人にそんな無礼な口を利くものなの?」
彼女が義母との親密さをさりげなく振りかざすのは、暗に「私こそが渡辺家の理想の嫁だった」と示すためだ。
灯は唇を噛み、意味ありげに眉を上げて微笑む。
「それはご義母様の配慮ね。私は無礼なところもあるし、不満なら手が出ることもあるのよ」
「須藤さん、試してみる?」と続けると、
夏蓮は一瞬ひるんだ。灯の顔の笑いが微妙に怖かったからだ。しばらく灯を見つめたあと、夏蓮は乾いた笑いを漏らす。
「一度でも触ってみなさいよ。もし私のお腹の子に何かあったら、渡辺はあなたを許さないから──」
「渡辺があなたを許すはずがないわ!」