章 2: 渡辺彰、離婚しましょう
編集者: Pactera-novel
彰は眉間に皺を寄せ、なぜ灯がいきなりこんな取るに足らないことを持ち出したのか理解できず、ぞんざいに答えた。
「……ああ。」
苛立ちを隠すようにこめかみを押さえながら続ける。
「今そんなことに付き合っている暇はない。今夜は祖父に呼ばれて本家で夕食だ。後で迎えに行くから、きちんと身支度しておけ。」
灯は真っ白なシーツを見つめ、心臓が痛みに似た鼓動を打ち始めた。
渡辺彰と結婚して二年、まるで氷を飲むような冷たい二年だった。
かつて彼は学園の須藤夏蓮と誰もが羨む恋人同士だった。だが清佳は大学での結婚を望まず、海外留学を選んだことで破局。
その後、祖父の強い意向で、彰は子供の頃に決められていた縁談を履行し、家柄も規模も見劣りする森田家の娘・灯を娶った。
祖父にとっては旧き友への恩義、彰にとっては孝行、森田家にとっては一世一代の幸運。
しかし灯にとってそれは――長年の片想いがようやく叶った瞬間だった。
従順であれば、賢ければ、いつか彼の過去を覆い隠し、夫婦として未来を共にできる。
彼女はそう信じていた。須藤夏蓮に取って代わる必要はない。ただ「渡辺夫人」でいられればよかったのだ。
しかし電話の向こうの沈黙が長引き、彰は苛立ちを募らせる。
いつもなら明るく軽口を叩くはずの灯の声が今日は妙に違う。
アシスタントに「会議が始まります」と急かされても、彼は電話を切らず、苛立ちまぎれに言った。「お前の父親が欲しがってた案件、俺が許可した。明日には――」
「……渡辺彰、離婚しましょう」
一瞬の沈黙の後、苛立った声が電話口から返ってくる。
「また何か欲しい物でもあるのか？バッグか？くだらないガラクタか？」
灯の長い爪がシーツの小さなほころびを強く引っかいた。
彰の苛立ちは収まらず、電話の向こうで続く。
「直接山田浩平（やまだ こうへい）に言え。俺はそんな取るに足らないことに構ってる暇は――」
最後まで聞くことなく、灯は電話を切った。
そのまま布団に潜り込み、静寂に身を沈める。
――もう、彼の声を聞くことはないだろう。
彰が家に戻ったのは午前二時を過ぎてからだった。
リビングは真っ暗で静まり返っている。いつもならソファにいるはずの姿がなく、彼は無意識に眉をひそめる。
ネクタイを乱暴に引き外し、息苦しさを紛らわせる。
その時――
「パチン」
不意に灯りが点き、彰は声を荒げた。
「何度も言っただろう、わざわざ待つ必要は――……お前か」
おそるおそる立っていたのは家政婦だった。
「お、お帰りなさいませ。お腹は空いていませんか？ お粥と、お好きな菓子を用意してあります」
彰は自然と視線をキッチンへ向けた。暗闇のままだ。
家政婦は慌てて補足する。
「……奥様は、今日は帰っていません」
彰はすぐに眉をひそめた。
「こんな時間まで、どこに行ってる。」
低く響いた声に、彼女は怯えて後ずさる。
「わ、分かりません。連絡もありませんでした」
「電話をかけるか？」とおずおず問われ、彰は顔を引き締め直した。
「不要だ。大人なんだ、死にはしない」
家政婦はそれ以上何も聞かなかった。
ベッドに横になったのは三時を回っていた。ノートPCを開いたものの、文字が頭に入らない。
いつもなら冷えきった体で戻ってきた彼を「寒い」と言いながら抱きしめ、温もりで包んでくれるはずの灯。
その感触がふと脳裏に蘇り、苛立ちが込み上げる。
気づけばスマホを握りしめ、通話履歴に指先を止めていた。
最後に彼女と話したのは七時間前――20時46分。
夫として妻に問い質す権利がある。なぜ帰宅しないのか。
そう思って電話をかける。
だが返ってきたのは冷たい自動音声。
『おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所に――』
「チッ！」
スマホは壁に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「森田灯……いい度胸だな」
その頃の灯は、病院のベッドで点滴をぶら下げたまま、フラフラと洗面所へ向かっていた。
暇つぶしにSNSを眺めても、トレンドには「西海岸」「須藤夏蓮」「謎の大物」の文字が躍っている。
「……ふざけてる。私にはアンティーク買うお金もないのに、彼女には豪華なネックレスに話題作り……余裕じゃない」
腹立たしさのあまり、記事の写真に映るぼんやりとした背中を爪で突き刺す。
「ネット越しに呪い殺してやる……！」
だがその途端、付け爪がズレて、スマホが手から滑り落ち――
「ポチャン」
まっすぐ便器の中へ。
呆然と見下ろした灯の顔は、数秒遅れて真っ青になった。
「……うそでしょ！？せっかく手に入れた最新機種なのに――！」
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