◆side. カイン
この世界で、獣人に転生してから十六年。
奴隷の子、カインとして育った俺に、揺れ動く心などもうない。
俺に鞭を打つ男が、憤慨して何事かを言っているが、意識的に五感を遮断させている俺には、何も届かない。
声も、痛みも、何もかも――。
貴族という生き物は、退屈している。
有り余る富と時間を、どうでもいい慰み事で浪費する。
ある者は賭け事に狂い、ある者は異性の収集に明け暮れ、そしてある者は――奴隷を弄び、飽きたら捨てる。
だがその日、俺の前に現れた1人の令嬢は、そんな貴族たちとは少し違う空気を身に纏っていた。
あらゆる感覚を遮断しているはずの俺の身体が、何かとてもない気配を察知して、無意識にピクリと反応する。
顔を上げた先に、彼女はいた。
色の薄い紫水晶と灰色の双眸を怪しく揺らし、何か得体の知れないものを宿した目。
少女の形をした怪物。
「あんた誰?」
「エリアーナ・フォン・クライネルト。今日からお前の主人になる人間よ」
◆
それから数日が過ぎた、ある日の昼食時のこと。
エリアーナの部屋の前で扉を守るように立っていると、侍女を通じて、中にいる彼女から命令が下された。
『カインも、わたくしの部屋で一緒に食事を取るように』
(なんて馬鹿げた命令だよ)
奴隷が主と同じ食卓を囲むなど、この国のモラルが許さない。
現に、目の前にいる言伝した侍女は、俺への侮蔑と、主への戸惑いがブレンドされて曇った顔をしている。
エリアーナは、己の行いがどれほど異常なことか、わかっていないのだろうか。
(あるいは、わかった上で、俺を試してやがるのか。読めない女だ)
どちらにせよ、奴隷に拒否権はない。
俺は黙って頷くと、侍女に導かれるまま壮麗な部屋へと足を踏み入れた――。
部屋に入った瞬間、俺はその洗練された内装に圧倒される。
絹のカーテンを透かして差し込む柔らかな陽光が、磨き上げられた大理石の床を美しく照らす。
壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられ、遠い国の風景や神話の場面が生き生きと描かれている。
この部屋にある1つ1つの装飾や調度品は、俺の命よりも遥かに高い値で取引されているのだろう。
そして、部屋の中央、丸いテーブルの上には、色とりどりの豪奢な食事が並ぶ。
湯気の立つ鳥の蒸し焼き。
季節の温野菜。
艶やかな光沢を放つパン。
そして、血のように赤いワイン。
しかし、その光景を見ても、俺の腹は鳴らない。
それは、俺のための食事ではないからだ。
俺とは無関係な、美しい絵画のようなもの。
エリアーナは、テーブルの向かい側で、静かに俺を見ていた。
磨き上げられた純銀の糸を束ねたかのような長髪が特徴的で、それだけでも彼女の育ちの良さがよくわかる。
血の気を感じさせない陶器の肌は、人間的な温かみを一切排し、まるで彫像のようだ。
「そこに」
白い指が示したのは、彼女の対面に位置する席。
俺は言われた通りに席の前に立つと、エリアーナは溜息を漏らす。
「座りなさい」
どうやら座れと言う意味だったらしい。
(そんな気はしていたが)
まさか令嬢が奴隷に対し、自分と同じ食事の席に着けなどと、そんなことを命じるとは信じ難い話だ。
俺は躊躇しながらも、音を立てないように椅子を引き、腰を下ろす。
そして、両手を膝の上に乗せ、ただ彼女が優雅な手つきで進める食事風景を眺めた。
「食べなさい」
俺は、その命令を聞いて、本格的に自分の耳を疑う。
獣人の中でも耳の良い爪狼族である俺が、聞き間違えるはずもないのだが。
「食べなさい」
全く同じトーンで繰り返される命令に、逆らうことはできない。
俺は、目の前に置かれたパンと、野菜のスープにだけ、手を付けた。
温かいスープが喉を通る。
(……前の世界では、こんな食事、当たり前だったな)
すぐに、その考えを振り払う。
過去を思い出すな。
懐かしむな。
それは、心を弱らせるだけだ。
(心を殺せ。どうせ、人間様の気まぐれだ。奴らは気まぐれで獣人を可愛がることもある)
暖かさを知るな。
優しさに慣れるな。
それらは全て、失った時にお前を殺す、甘い毒だ。
俺は、何度も見てきた。
一時の情けに溺れ、心を弱らせ、結局、現実とのギャップに耐えきれず壊れていった奴隷たちを。
(俺は、ああはならない)
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
無心でパンをちぎり、スープを口に運ぶだけの時間が続いた。
それほど時間は経っていないはずだが、やけに長く席に座っている気がしてしまう。
部屋には、食器とカトラリーが触れ合う小さな音だけが響く。
正面に座るエリアーナも、ただ黙々と食事を進めている。
同じテーブルに、獣人である俺がいることなど、気にも留めていないかのように。
(この女が何を考えているのか、わからねぇ)
「どうして、お肉に手を付けないの?」
不意に、鈴を転がすような声が静寂を破った。
俺はスープ皿から顔を上げる。
エリアーナが、真っ直ぐに俺を見据えていた。
その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
ただ、純粋な問いだけがそこにあった。
「分不相応ですので」
俺は、奴隷としての模範解答を口にした。
最も当たり障りがない無難な答え。
だが、彼女は不服そうな顔をしている。
「分、ですって? それは誰が決めるものかしら」
「主様が決めるものです」
「なら、わたくしは、『食べなさい』と命じたわよ」
(面倒くさい奴だ。ああ言えばこう言いやがる)
「貴方の心は死んでいるの? それとも、錆びついて動かし方を忘れてしまったのかしら」
どういうのことだ、と眉を顰めそうになるのを、咄嗟にこらえる。
「貴方は、決して自分の意志で何かをしようとはしない。ただ、与えられた役割を、命令を、愚直にこなすだけ。まるで、心をどこかに置き忘れてきたみたいに」
(ああ――やっぱり、コイツは馬鹿だ)
心の内で、嘲笑を浮かべた。
(奴隷に心なんて不要なんだよ)
「奴隷とは、そういうものだからです」
「本当にそうかしら?」
彼女は、白い手をテーブルの上で組み、わずかに身を乗り出しす。
その瞳が、妖しく強い光を宿すのを、俺は見た。
「わたくしは、そうは思わない。どんなに虐げられても、どれだけ心を殺しても、その奥底にある魂まで、誰も奪うことはできない。――貴方も、本当はそう思っているのではないかしら?」
俺は、何も答えない。
答えても意味がない。
この女は、俺の魂そのものに、手を伸ばそうとしているのだろう。
俺の心を折り、支配するために――。
(何を期待しているのか知らんが、俺に構うだけ時間の無駄だ)
どれほどの沈黙が、俺たちの間に流れただろうか。
先にそれを破ったのは、エリアーナだった。
「貴方はもっと反抗的な奴隷だと聞いていたわ。ここへ来る前、随分と暴れたそうじゃない。どうして、わたくしの前では牙を隠しているのかしら?」
「暴れる理由がございません。貴方に仕えてから数日、俺には十分な食事と、大した危険のない楽な仕事が与えられている」
「なるほど。では、こうしたら暴れるのかしら?」
そう言って、彼女は再びフォークを手に取った。
そして、席を立つと、何でもないように俺へ歩み寄り、喉元に突き立てる。
(結局、こうなるのかよ)
俺は、あえて避けようともしない。
奴隷が主人の折檻を拒否することは罪だ。
嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
部屋に控える侍女と護衛は、エリアーナの行動に何やらご満悦な笑みを浮かべている。
彼らは獣人が虐げられる姿を見ると、興奮する性質があるらしい。
この世界の人間らしい素敵な感性をお持ちのようだ。
「どうして、抵抗しないの?」
再び、エリアーナが俺に問いを投げかけた。
俺は定型文だけを返す。
「抵抗する理由がございません。主様の所有物として、俺は全てを受け入れます」
俺の答えを聞いて、彼女は心底退屈そうな顔をする。
いや、その眼の奥には、僅かな寂しさのようなものが浮かんでいるだろうか。
(そんなわけがないか)
俺は気のせいだと切り捨て、ただ静かに肩に刺さったフォークが引き抜かれるのを待った。
「もういいわ。出て行きなさい」
肩から、ゆっくりとフォークが抜ける不快感。
それが、退出の合図だった。
俺は音を立てずに椅子から立ち上がり、彼女に一礼して、この息の詰まる空間から去る。
だが退室する間際、前世から引き継いだ習慣が、俺の意思とは関係なく、その言葉を唇から滑り落とさせた。
「〔……ごちそうさん〕」
日本語で、小さく、誰にも理解できないはずの呟きを漏らす。
その時だった――。
ぴたり、と。
紅茶のカップを手に取ろうとしていた、エリアーナの手が止まった。
バッと顔を上げて、彼女は俺の顔を見る。
彼女の瞳が、大きく見開かれていた。
俺には、その驚愕が何を意味するのか、わからない。
(いや、そんな……まさか)
俺と彼女だけが、まるで時が止まったかのように、顔を見合わせている。
彼女の眼の奥には、何かを期待するような輝きがあった。