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章 4: 奴隷の流儀

◆side. カイン

 この世界で、獣人に転生してから十六年。

 奴隷の子、カインとして育った俺に、揺れ動く心などもうない。

 俺に鞭を打つ男が、憤慨して何事かを言っているが、意識的に五感を遮断させている俺には、何も届かない。

 声も、痛みも、何もかも――。

 貴族という生き物は、退屈している。

 有り余る富と時間を、どうでもいい慰み事で浪費する。

 ある者は賭け事に狂い、ある者は異性の収集に明け暮れ、そしてある者は――奴隷を弄び、飽きたら捨てる。

 だがその日、俺の前に現れた1人の令嬢は、そんな貴族たちとは少し違う空気を身に纏っていた。

 あらゆる感覚を遮断しているはずの俺の身体が、何かとてもない気配を察知して、無意識にピクリと反応する。

 顔を上げた先に、彼女はいた。

 色の薄い紫水晶アメジスト灰色グレーの双眸を怪しく揺らし、何か得体の知れないものを宿した目。

 少女の形をした怪物。

「あんた誰?」

「エリアーナ・フォン・クライネルト。今日からお前の主人になる人間よ」

 それから数日が過ぎた、ある日の昼食時のこと。

 エリアーナの部屋の前で扉を守るように立っていると、侍女を通じて、中にいる彼女から命令が下された。

『カインも、わたくしの部屋で一緒に食事を取るように』

(なんて馬鹿げた命令だよ)

 奴隷が主と同じ食卓を囲むなど、この国のモラルが許さない。

 現に、目の前にいる言伝した侍女は、俺への侮蔑と、主への戸惑いがブレンドされて曇った顔をしている。

 エリアーナは、己の行いがどれほど異常なことか、わかっていないのだろうか。

(あるいは、わかった上で、俺を試してやがるのか。読めない女だ)

 どちらにせよ、奴隷に拒否権はない。

 俺は黙って頷くと、侍女に導かれるまま壮麗な部屋へと足を踏み入れた――。

 部屋に入った瞬間、俺はその洗練された内装に圧倒される。

 絹のカーテンを透かして差し込む柔らかな陽光が、磨き上げられた大理石の床を美しく照らす。

 壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられ、遠い国の風景や神話の場面が生き生きと描かれている。

 この部屋にある1つ1つの装飾や調度品は、俺の命よりも遥かに高い値で取引されているのだろう。

 そして、部屋の中央、丸いテーブルの上には、色とりどりの豪奢な食事が並ぶ。

 湯気の立つ鳥の蒸し焼き。

 季節の温野菜。

 艶やかな光沢を放つパン。

 そして、血のように赤いワイン。

 しかし、その光景を見ても、俺の腹は鳴らない。

 それは、俺のための食事ではないからだ。

 俺とは無関係な、美しい絵画のようなもの。

 エリアーナは、テーブルの向かい側で、静かに俺を見ていた。

 磨き上げられた純銀の糸を束ねたかのような長髪が特徴的で、それだけでも彼女の育ちの良さがよくわかる。

 血の気を感じさせない陶器の肌は、人間的な温かみを一切排し、まるで彫像のようだ。

「そこに」

 白い指が示したのは、彼女の対面に位置する席。

 俺は言われた通りに席の前に立つと、エリアーナは溜息を漏らす。

「座りなさい」

 どうやら座れと言う意味だったらしい。

(そんな気はしていたが)

 まさか令嬢が奴隷に対し、自分と同じ食事の席に着けなどと、そんなことを命じるとは信じ難い話だ。

 俺は躊躇しながらも、音を立てないように椅子を引き、腰を下ろす。

 そして、両手を膝の上に乗せ、ただ彼女が優雅な手つきで進める食事風景を眺めた。

「食べなさい」

 俺は、その命令を聞いて、本格的に自分の耳を疑う。

 獣人の中でも耳の良い爪狼ロゥグ族である俺が、聞き間違えるはずもないのだが。

「食べなさい」

 全く同じトーンで繰り返される命令に、逆らうことはできない。

 俺は、目の前に置かれたパンと、野菜のスープにだけ、手を付けた。

 温かいスープが喉を通る。

(……前の世界では、こんな食事、当たり前だったな)

 すぐに、その考えを振り払う。

 過去を思い出すな。

 懐かしむな。

 それは、心を弱らせるだけだ。

(心を殺せ。どうせ、人間様の気まぐれだ。奴らは気まぐれで獣人を可愛がることもある)

 暖かさを知るな。

 優しさに慣れるな。

 それらは全て、失った時にお前を殺す、甘い毒だ。

 俺は、何度も見てきた。

 一時の情けに溺れ、心を弱らせ、結局、現実とのギャップに耐えきれず壊れていった奴隷たちを。

(俺は、ああはならない)

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 無心でパンをちぎり、スープを口に運ぶだけの時間が続いた。

 それほど時間は経っていないはずだが、やけに長く席に座っている気がしてしまう。

 部屋には、食器とカトラリーが触れ合う小さな音だけが響く。

 正面に座るエリアーナも、ただ黙々と食事を進めている。

 同じテーブルに、獣人である俺がいることなど、気にも留めていないかのように。

(この女が何を考えているのか、わからねぇ)

「どうして、お肉に手を付けないの?」

 不意に、鈴を転がすような声が静寂を破った。

 俺はスープ皿から顔を上げる。

 エリアーナが、真っ直ぐに俺を見据えていた。

 その瞳には、何の感情も浮かんでいない。

 ただ、純粋な問いだけがそこにあった。

「分不相応ですので」

 俺は、奴隷としての模範解答を口にした。

 最も当たり障りがない無難な答え。

 だが、彼女は不服そうな顔をしている。

「分、ですって? それは誰が決めるものかしら」

あるじ様が決めるものです」

「なら、わたくしは、『食べなさい』と命じたわよ」

(面倒くさい奴だ。ああ言えばこう言いやがる)

「貴方の心は死んでいるの? それとも、錆びついて動かし方を忘れてしまったのかしら」

 どういうのことだ、と眉を顰めそうになるのを、咄嗟にこらえる。

「貴方は、決して自分の意志で何かをしようとはしない。ただ、与えられた役割を、命令を、愚直にこなすだけ。まるで、心をどこかに置き忘れてきたみたいに」

(ああ――やっぱり、コイツは馬鹿だ)

 心の内で、嘲笑を浮かべた。

(奴隷に心なんて不要なんだよ)

「奴隷とは、そういうものだからです」

「本当にそうかしら?」

 彼女は、白い手をテーブルの上で組み、わずかに身を乗り出しす。

 その瞳が、妖しく強い光を宿すのを、俺は見た。

「わたくしは、そうは思わない。どんなに虐げられても、どれだけ心を殺しても、その奥底にある魂まで、誰も奪うことはできない。――貴方も、本当はそう思っているのではないかしら?」

 俺は、何も答えない。

 答えても意味がない。

 この女は、俺の魂そのものに、手を伸ばそうとしているのだろう。

 俺の心を折り、支配するために――。

(何を期待しているのか知らんが、俺に構うだけ時間の無駄だ)

 どれほどの沈黙が、俺たちの間に流れただろうか。

 先にそれを破ったのは、エリアーナだった。

「貴方はもっと反抗的な奴隷だと聞いていたわ。ここへ来る前、随分と暴れたそうじゃない。どうして、わたくしの前では牙を隠しているのかしら?」

「暴れる理由がございません。貴方に仕えてから数日、俺には十分な食事と、大した危険のない楽な仕事が与えられている」

「なるほど。では、こうしたら暴れるのかしら?」

 そう言って、彼女は再びフォークを手に取った。

 そして、席を立つと、何でもないように俺へ歩み寄り、喉元に突き立てる。

(結局、こうなるのかよ)

 俺は、あえて避けようともしない。

 奴隷が主人の折檻を拒否することは罪だ。

 嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

 部屋に控える侍女と護衛は、エリアーナの行動に何やらご満悦な笑みを浮かべている。

 彼らは獣人が虐げられる姿を見ると、興奮する性質があるらしい。

 この世界の人間らしい素敵な感性をお持ちのようだ。

「どうして、抵抗しないの?」

 再び、エリアーナが俺に問いを投げかけた。

 俺は定型文だけを返す。

「抵抗する理由がございません。主様の所有物として、俺は全てを受け入れます」

 俺の答えを聞いて、彼女は心底退屈そうな顔をする。

 いや、その眼の奥には、僅かな寂しさのようなものが浮かんでいるだろうか。

(そんなわけがないか)

 俺は気のせいだと切り捨て、ただ静かに肩に刺さったフォークが引き抜かれるのを待った。

「もういいわ。出て行きなさい」

 肩から、ゆっくりとフォークが抜ける不快感。

 それが、退出の合図だった。

 俺は音を立てずに椅子から立ち上がり、彼女に一礼して、この息の詰まる空間から去る。

 だが退室する間際、前世から引き継いだ習慣が、俺の意思とは関係なく、その言葉を唇から滑り落とさせた。

「〔……ごちそうさん〕」

 日本語で、小さく、誰にも理解できないはずの呟きを漏らす。

 その時だった――。

 ぴたり、と。

 紅茶のカップを手に取ろうとしていた、エリアーナの手が止まった。

 バッと顔を上げて、彼女は俺の顔を見る。

 彼女の瞳が、大きく見開かれていた。

 俺には、その驚愕が何を意味するのか、わからない。

(いや、そんな……まさか)

 俺と彼女だけが、まるで時が止まったかのように、顔を見合わせている。

 彼女の眼の奥には、何かを期待するような輝きがあった。


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