その夜、空に星はなかった。
消え去ったわけではない。
――カエレンが、沈黙させたのだ。
荒廃した世界の上空、高く浮かぶ黒曜石の尖塔が雲を突き破り、まるで反逆の記念碑のように聳え立っていた。
その頂上には、うねるように動く魔法陣が刻まれていた。蛇のように這い、回転し、形を変え続けるルーン。
その一つ一つが文明以前の古代文字であり、忘れ去られた異界から盗み出されたものだった。
その中心に立つ男――蒼金色に渦巻く魔力の球体に包まれていたのは、
第九階位の魔術師、カエレン。
漆黒の礼装に星糸の縁取り。年齢を感じさせぬその顔は、喜びも恐れもなく、ただ静かな集中だけが宿っていた。
「九段階に至っても、まだ這いずっているとはな……」
空が歪み始めた。神々の祝福ではなく、しぶしぶの応答。
“魔を超える門”が現れた。
膨大な法則の光、回転する魔法文字、律動する法の鼓動。
レベル8に到達する前に死ぬ者が大半――レベル9を切り拓いた者はカエレンのみ。
そして今、神々さえ恐れるものに挑もうとしていた。
第十階位への到達。
両手を掲げ、カエレンは“古代アルカナ語”を唱える。
それはこの現実に存在しない、異界の言語。
「意志によりて、炎を命じ、
炎によりて、魂を縛り、
魂によりて、帳を喰らう。」
魔法陣が炸裂した。
空に張り巡らされたレイラインと融合し、大地が揺れ、雲は血のように赤く染まった。
“門”がさらに開かれた――が、
突如として、動きが止まる。
カエレンの呼吸が詰まる。
何かがおかしい。
光が暗転し、文字が逆転する。
運命の裂け目のような音が、世界全体に響いた。
【起動拒否】
【魂構造:不適合】
【昇格失敗】
“門”から放たれたのは、力ではなかった。
――裁きだった。
逆流する魔力が、カエレンの体を裂き、皮膚は焼け、血管は白く輝き、骨は砕ける。
それでも、彼は笑った。
「拒むか……?
それで終わると思ったのか?」
崩壊する空を見上げる瞳には、消えない光が宿っていた。
「ならば、昇ることはせん。
散るまでだ。
次の世界に、我が遺志を託す。」
門が崩壊し、宇宙そのもののような力が爆ぜる。
カエレンの魂は砕け、千の断片となって虚無に散った。
しかし、一つだけ――“アルケイン・コーデックス”に結ばれた断片が、動き出した。
【警告:魂崩壊検知】
【アルケイン・コーデックス:最終意志プロトコル起動】
【適合可能な器を検索中……】
【対象発見:リン・カイ(16歳)/状態:瀕死/修練度:無】
一筋の光が暗闇を貫き、儀式の場は完全に崩壊した。
「魔法よ、本来あるべきでなかった世界を這い進め。
天界よ、我が記憶に震えるがいい。」
その夜、雨に慈悲はなかった。
名もなき山間の町――古びた石道と粘土の壁を、無言の雨が濡らし、足跡も罪も洗い流していく。
遠くで雷が鳴ったが、
誰も気づかなかった。
泥の中を裸足で歩く少年――酔い、濡れ、忘れ去られた存在に。
リン・カイ。
リン家の次男。
かつては剣で空を舞う英雄を夢見た少年。
今は酒を買う金さえない。
またもや、あのチョウ家の娘に平手打ちされた。
大声で、皆の前で。
家に戻っても、父は顔色一つ変えなかった。
夕食の席で、こう囁いた。
「あいつが子供の頃に死んでくれていればよかったのに。
根を持たぬ者など、家の恥だ。」
その言葉は、雨よりも重くリン・カイの心に染みた。
何も考えず、老いた橋へと足を運ぶ。
板がきしむ音を背に、欄干に体を預けた。
誰も追わない。
誰も呼ばない。
息が乱れ、視界が歪む。
「努力したんだ……本当に……たった一度でいい、修練したかった。」
幼い頃、座禅を組み、天に祈った記憶がよみがえる。
血管は裂け、骨は軋み、痛みだけが残った。
だが――気は一度も流れなかった。
周囲は笑った。毎回、笑った。
「この世界に、生きる価値すらないのかもしれない。」
そう呟き、
彼は静かに、身を投げた。
闇。
水。
沈黙。
――終わらなかった。
なにかが……来た。
光が虚無に瞬いた。
アルケインの光を纏った魂の断片。
拒まれた門から、時空を越えて投げ出されたもの。
それが、リン・カイの消えかけた魂に触れる。
アルケイン・コーデックスが起動する。
【システム起動中……】
【ホスト:リン・カイ/状態:終了寸前】
【外部存在検知:カエレン(第9階位魔術師)/魂断片】
【融合試行中……】
【適合率スキャン開始】
【気適性:0%】
【霊根:未保有】
【気脈:未形成】
(……一時停止……)
【魔力核適合度:99.999%】
【魂神経伝導:完全】
【属性共鳴:確認済】
【この肉体は魔法再構築に最適です】
リン・カイの意識の残滓に、静かに語りかける声。
「居場所を手放したのか。
なら、見せてやろう。お前を捨てた世界に、何を失ったかを。」
二つの魂は融合した。
支配と服従ではなく――遺志と器として。
「ッ……!」
川辺で、リン・カイの体が跳ね起き、激しく咳き込みながら肺から水を吐き出した。
「きゃっ!?」「……生き返った?」
農夫の悲鳴、群がる村人の視線。
目を見開いたリン・カイ――いや、今はカエレン。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、静かに立ち上がった。
――その瞳に、かつて気を乞うた少年の面影はなかった。
意識を完全に取り戻したカエレンは、内側からこの肉体を調べていた。
「骨密度:低。神経系:安定。……だが、魂の反応……これは……魔力への適応率が異常だ。まるで魔法のために生まれたかのようだな。」
微笑が浮かぶ。
「霊根なし。気ゼロ。――問題ない。」
【アルケイン・コーデックス:オンライン】
【ホスト確認:カエレン/リン・カイ】
【融合安定】
【世界設定:修仙支配/魔力中立】
【目標:気の支配環境における魔道開花】
【起動:無根再鍛プロトコル】
ゆっくりと立ち上がったその瞬間、
風が不自然に渦を巻く。気ではなく、別の何か――もっと古く、忘れ去られた“何か”が、彼に反応していた。
背後の村人たちがざわめく。誰かが、恐る恐る名前を呼んだ。
だが、彼は――もう“リン・カイ”ではない。
昇る朝日に向かって、無言のまま歩き出した。
「あいつは屑だ。根なき器――そう呼ばれていたそうだな。」
「だが、奴らは間違っていた。」
その瞳には、アルケインの光が揺らめいていた。
「この肉体は、魔法のためにある。
そして俺は、それを再びこの世にもたらす者だ。」