翌日。
久しぶりに、澪は――本当に久しぶりに、心から自由だと感じながら目を覚ました。
仕事に向けて慌てて支度する必要もない。
妹の莉緒が部屋に押し入って起こしてくることもない。
非常識な時間に鳴り響くアラームもない。
実際には緊急でもなんでもない「緊急通知」が鳴り止まないスマホも、今日は黙っていた。
ただ、平和。
静かで、美しい平和。
すでに外は陽が高く昇っていたが、「遅刻」という言葉が頭をよぎることもなく、澪はまるで世界のすべてを手中に収めた猫のように、気ままに身体を伸ばした。
「おはよう、澪」
枕を唯一の味方のように抱きしめ、窓枠に切り取られた青空をぼんやりと見つめながら、彼女はそうつぶやいた。
遠くの方で波が砂浜を叩く音が微かに聞こえる。まるで自然そのものが、彼女の解放を祝福して拍手してくれているかのように。
「今日は怠けていい日だよ、澪。焦らなくていい。何年もずっと、ロボットみたいに走り続けてきたんだから……」
義務から解放されたことの新鮮さに、彼女は思わず笑みを浮かべた。
正直なところ、これは恵みかもしれない。上司も、締切も、エネルギーを吸い取るような偽りの友人もいない。
ただ自分一人だけ。
完全な孤独。
しかし、
その至福の朝は、怒れるライオンのような腹の音で、あっけなく幕を閉じた。
「うっそでしょ……まさか忘れてたなんて」
澪は毛布を跳ね除け、ベッドから転がるように起き上がった。
たとえ朝食をスキップしてもう一度布団に潜りたくても、彼女のお腹の中に住まう小さな住人は、そんな妥協は許してくれないらしい。しかも、その住人は遠慮なく苦情を出してくる。
真帆さんがまるで世界の終わりに備えるかのように、冷蔵庫をパンパンにしてくれていたことに、澪は感謝せずにはいられなかった。
あれはもはや、ゾンビ襲来にも耐えられるレベルの備蓄だった。
彼女は牛乳とシリアルの箱を取り出し、キッチンアイランドの上にあったバナナをひとつつかんだ。
ささやかなシリアルボウルを用意し、ようやく窓の外を初めて眺める。
そのまま朝食を、窓際にぴたりと寄せられた、寂しく並ぶふたつの椅子がある小さなダイニングテーブルへと運んだ。
ひと口食べて、ひと目見て、澪はすっかり魅了された。
海はどこまでも広がり、まるで観光CMのオーディションでもしているかのように煌めいていた。
眼下の浜辺は真っ白な砂が広がるだけで、ゴミも、騒ぐ子供も、縄張りを主張する野良犬すらいない。
観光客も、ボートもいない。ただ、波だけがゆっくりと、ドラマチックに岸辺を打ち、まるで澪を誘うかのようだった――泳ぎにおいで、と。
「真帆さん、本当に女王様ね。どうやってこんな場所、あの価格で見つけてきたの?王冠贈呈よ」
澪は思わず声に出して賞賛した。
ほんの数日前、自分の進むべき道をようやく定めたあと、彼女は真帆さんに連絡して、この町で住む場所を探してほしいと頼んだ。
このアパートの家賃があまりにも安いと聞いたとき、彼女は迷わず五年契約にサインした。
これは間違いなく、賢い投資だ。ここで、自分の子どもを育てていく。
シリアルとバナナを食べ終えたとき、またしてもお腹が鳴った。
澪は完璧に平らなお腹を見下ろす。
「住人ちゃん……まさか、まだお腹すいてるの?本気?」
思わず笑ってしまい、彼女は椅子から立ち上がって冷蔵庫へ向かう。
今日は料理をする気分じゃなかったが、真ん中の棚でひときわ鮮やかなりんごが、まるで「どうぞ」とウインクしていた。
シャキッと音を立ててその果実にかじりつきながら、澪の視線は自然と彷徨い――やがて、リビングのテレビに落ち着いた。
気づけば足が勝手に動いていて、彼女はそのままふかふかのソファに身を預けていた。
ニュースでも見ておこうか。
小野家を去ったあの華々しい一件が、まだ世間を賑わせているのか――確認のために。
好奇心が、いつものように勝った。
澪はリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
画面がパッと明るくなった瞬間、彼女のあごがガクンと落ちた。まるで死神がテレビから這い出してきて、携帯番号を聞いてきたかのように、彼女の目は見開かれる。
「なにこれ……?どうして私の苦しみの元凶が電源入れた途端に出てくるのよ?」
そこには、彼がいた。藤原直哉。高級車から滑るように降り立ち、まるで企業界の神か何かのように、ビジネスパーティーへ向かっていた。
澪は慌ててリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変えようとした。しかし、運命はそう簡単に逃がしてくれない。直哉はカメラに向かって無造作に手を振り、外で待ち構えるパパラッチたちに応えていた。
彼女は認めざるを得なかった。黒のスーツにハイネックという彼のいつもの装いが、罪深いほど様になっていることを。整った顔立ちを縁取るように整えられた黒髪は、通行を妨げるどころか、呼吸すら止めかねない破壊力を放っている。
藤原直哉――ビジネス界のトップに君臨し、成功の象徴とも言われる男。鋼のような神経を持ち、その視線はガラスをも砕くと言われていた。
33歳にして、国内の老舗企業ですら震え上がるほどのビジネス帝国を築いたその男。
当然、それだけの成功は賞賛だけでなく、常に噂とスキャンダルと批判記事を引き寄せる。
そして、なぜか元父・小野拓海は、藤原家、特に直哉のことを、心の底から憎んでいた。
その理由は、澪にもわからなかった。ただ、藤原家と交渉の余地は一切ない――それだけははっきりしていた。
苦笑が漏れる。画面の中の彼は、まるで澪に向かって手を振っているように見えた。冷たい目、読み取れない口元――そして一切立ち止まることなく、建物の中へと消えていった。
その瞬間、澪の腹がぎゅっと痛んだ。彼女は反射的にお腹をさすった。
「住人ちゃん、今の人、わかったの?」
鼻で笑いながら、彼女はチャンネルを切り替えた。が、そこにもまた――澪自身の特集が映っていた。
どうやら、まだまだ自分は世間の注目の的らしい。つまり、こんなに静かで素敵な街でも、うかつに外を出歩けば、目撃され、通報され、またしてもメディアの餌にされかねないということ。
平穏――それはまだ、少なくとも予見可能な将来、手の届かない夢のままだ。
深く息を吐き、澪はぐるぐると渦巻く不安と心配を、心の引き出しにしまい込んだ。ラベルは「今日のところは、やめておく」。
彼女は寝室に戻り、ノートパソコンのバッグを手に取ると、再びキッチンアイランドへと向かった。
ノートパソコンが静かに起動し、暗がりの中で画面がぼんやりと光った。
そして「ピン」という音が鳴り、彼女を驚かせた。
彼女は目を細めた。画面いっぱいに現れたのは、暗号化されたセキュアチャットのウィンドウ。
その真ん中に、ただ一行だけ、点滅するメッセージが表示されていた。
「そこで大丈夫?」