信じる者は、救われない。
そんな陳腐な言葉を、骨の髄まで理解したのは、一体いつからだったか。
オレは、それなりに真面目なサラリーマンだったと思う。
寝る間も惜しんで営業に駆けずり回り、頭を下げ、顧客の無理難題に応え続けた。同期が合コンだの趣味だのに現を抜かしている間も、オレはひたすら会社の利益だけを考えて働いた。
その努力は、数字という分かりやすい形で報われた。
入社三年目にして、営業成績は常にトップ。誰よりも会社に貢献している自負があった。このままいけば、若くして重要なポストに就けるだろう。誰もがそう言ったし、オレ自身もそう信じていた。
――そう、信じてしまっていたのだ。
ある朝、出社したオレは自分の目を疑った。
オレが三年間かけて積み上げてきた営業データ、顧客リスト、交渉記録……そのすべてが、サーバーから綺麗さっぱり消去されていた。
誰かが意図的に消した。それはすぐに分かった。
だが、オレは犯人探しをしなかった。そんな不毛なことをする時間があるなら、一つでも多くデータを復旧させた方がいい。そう考えて、その日から泊まり込みでPCにかじりついた。
心は、少しずつすり減っていった。
だが、それ以上にオレの心を抉ったのは、裏切りの事実だった。
データを消した犯人は、オレが誰よりも信頼し、尊敬していた上司だった。
理由は、嫉妬。ただそれだけ。
「出る杭は打たれる」という言葉があるが、まさか自分が打たれる側になるとは。しかも、その杭を打ったのが、いつもオレの努力を褒めてくれていたはずの男だったなんて。
話はそれだけでは終わらない。
その上司は周到に根回しをしていた。「あいつは自分の功績を誇張するために、データを改竄していた」「今回のデータ消去も、その隠蔽工作だろう」――。
いつの間にか、オレは会社にとっての「悪者」に仕立て上げられていた。
努力は、人を幸せにするとは限らない。
会社でのし上がるために必要なのは、実直な貢献じゃない。いかに他人を出し抜き、蹴落とし、自分の手柄に見せかけるかという権力闘争のスキルなのだ。
心が、ぽっきりと折れる音がした。
「くそっ……くそったれが……!」
その日の帰り道、オレは浴びるように酒を飲んだ。安物の焼酎が、荒れ果てた喉を焼いていく。
千鳥足で夜の街をふらつく。ネオンの光が滲んで、世界がぐにゃぐにゃに歪んで見えた。
オレが間違っていた。
必死に努力すれば、誰かが認めてくれるなんて。誠意をもって接すれば、相手も応えてくれるなんて。そんなものは、すべて幻想だった。
人間なんて、信じるだけ無駄だ。期待するだけ損をする。
そんなことを考えながら、雑踏の中を歩いていた、その時だった。
「……っ!?」
視界の端からぬっと現れた男が、オレの腹に何かを突き立てた。
熱い。焼けるような激痛が、身体の中心から広がっていく。
見下ろせば、自分の腹に突き刺さった、鈍く光るナイフの柄が見えた。
ああ、刺されたのか。
訳も分からないまま、オレは冷たいアスファルトに崩れ落ちた。遠ざかっていく人々の悲鳴をBGMに、急速に意識が薄れていく。
――結局、こんなもんか。オレの人生。
◆
……どこだ、ここ?
天国か? いや、地獄か。
どちらにせよ、あの理不尽な世界から解放されたのなら、もうどうでもいい。
ぼんやりとする視界の中で、何かが動いているのが見えた。
焦点が合うと、そこにいたのは一人の少女だった。歳は十代前半くらいだろうか。簡素だが清潔なメイド服に身を包んだ彼女は、ブルブルと子犬のように震えながら、床にひれ伏していた。
「も、申し訳……ございません……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
何度も、何度も、消え入りそうな声で謝罪を繰り返している。
その視線は、明らかにオレに向けられていた。
なんだ、これは。
状況がまったく理解できず、オレはただ呆然とその光景を眺めていた。
すると、重厚な扉が開き、一人の壮年の男が入ってきた。
燕尾服を隙なく着こなし、銀縁のモノクルをかけた、いかにも執事といった風体の男だ。彼は床にひれ伏すメイドを一瞥すると、冷たい声で言った。
「この者は後ほど私が厳しく『しつけ』ておきますので、どうかお許しを。――カイゼル様」
カイゼル?
誰だ、それは。
執事の言葉に、オレはますます混乱した。
メイドは、どうやらコップか何かを落として割ってしまったらしい。床には陶器の白い破片が散らばっている。
だが、そんなことよりも、今しがた執事が口にした名前に、オレは引っかかりを覚えていた。
カイゼル。カイゼル・フォン・リンドベルク。
その名は、どこかで聞いたことがある。いや、知っている。
脳裏に稲妻が走った。そうだ、あれは――
学生時代、それこそ寝る間も惜しんでやり込んだ超大作RPG、『グランドクロス』。
通称――グラクロ。
剣と魔法が息づく王道のファンタジー世界を舞台に、壮大な物語が繰り広げられる神ゲーだ。
だが、グラクロが他のRPGと一線を画していたのは、その異常なまでの自由度にあった。プレイヤーの選択一つで、物語は無数の枝に分かれていく。登場するほぼ全てのキャラクターに固有のストーリー、つまり「ルート」が存在し、その膨大なシナリオを追いかけるだけで、大学生活のすべてを捧げたと言っても過言ではなかった。
そして、その物語に登場する「カイゼル・フォン・リンドベルク」というキャラクターを、オレは嫌というほど知っていた。
彼は、ゲーム序盤に登場する典型的な悪役貴族だ。
金と権力をカサに着て、常に他人を見下す傲慢の塊。気に入らない者は力で、金で、あらゆる手段を使ってねじ伏せる。その歪んだ性根は、まさにオレが前世で心底軽蔑した「他人を蹴落とす側」の人間そのものだった。
だからこそ、彼はあらゆるルートで破滅的な運命を迎えるのだ。
例えば、断罪ルート。そこでのカイゼルは、主人公が最初に打倒すべき「悪の象徴」として立ちはだかる。数々の悪事が白日の下に晒され、民衆の前で断罪。プライドをズタズタに引き裂かれ、見るも無残な末路を辿る。
あるいは、貧民街の少女が革命を起こすルート。彼は民衆の憎悪を一身に集め、革命が成就した際、真っ先にギロチン台へと送られる。
極めつけは、皮肉に満ちた暗殺者ルートだ。カイゼルは金で雇ったはずの腹心の部下に裏切られ、「お前のようなクズに利用されるのは、もう真っ平だ」と吐き捨てられ、あっけなく命を落とす。――そう、まるで前世のオレを裏切った、あの上司のように。
どのルートを選んでも、カイゼル・フォン・リンドベルクに待っているのは「死」か、それ以上の「絶望」だけ。救いようのない、バッドエンド確定の嫌われ者。
まさか。
そんな馬鹿なことがあるはずない。
だが、頭の中に流れ込んでくる断片的な記憶――豪華絢爛な子供部屋、傅いてくる使用人たち、そして鏡に映った自分の姿。
銀色の髪に、空のように青い瞳を持つ、まだ9歳ほどの幼い少年の姿が、パズルのピースのようにカチリとはまった。
オレは、転生した。
それも、人間不信のオレが、大嫌いな「他人を蹴落とす側」の人間――いずれ、誰からも裏切られ、憎まれ、惨めに殺される運命の、最悪の悪役貴族として。