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章 8: 8話 高度な腹のさぐりあい

 イオからの問いに、オレは思考が停止した。

 優しい、だと……? どういう意味だ。

 オレの行動は、将来の暗殺リスクを少しでも下げるための、必死の危機管理にすぎない。そこに、優しさなんて感情が入り込む余地は、欠片もなかったはずだが……。

 はっ……!

 まさか、疑っているのか?

 オレが、本物の『カイゼル・フォン・リンドベルク』ではない、何者かに成り代わった存在――例えば、『悪魔憑き』ではないかと。

 脳裏に、前世でやり込んだゲームの、忌まわしい記憶が稲妻のように駆け巡る。

 カイゼルの数ある破滅ルートの中に、ひときわ陰惨な『悪魔憑きルート』があった。ある日を境に、前後の脈絡もなく突然性格が変貌したカイゼルは、やがて正体が露見し、魂ごと浄化され消滅させられるのだ。

 まずい。

 オレは、暴力という直接的なヘイト行為を恐れるあまり、中途半端に態度を軟化させてしまった。その不自然な変化が、勘の鋭い彼女に、最悪の疑念を抱かせてしまったというのか……!

 頭が、真っ白になる。目の前の少女が、ただの暗殺者候補から、オレの存在そのものを消し去りかねない『審問官』に見えてきた。

 ……いや、待て。冷静になれ。まだだ。

 彼女は今、オレに『質問』してきただけ。まだ疑いの段階に過ぎない。

 ならば、この状況を切り抜ける方法は一つ。この場で、カイゼルらしい傲慢で自己中心的な言動を見せつけることだ!

 オレは覚悟を決めると、ふっと鼻で笑ってみせた。

 そして、わざとらしく紅茶のカップに口をつけると、目の前の少女を見下すように、冷たい視線を投げかける。

「……勘違いするなよ、凡俗」

 イオの肩が、びくりと震える。オレは構わず、言葉を続けた。

「貴様が怪我をしたり、汚い手で屋敷をうろついたりすれば、このオレの気分が悪くなる。貴様が重い荷物で手間取っていれば、オレの目に障る。オレが貴様を気にかけているのは、すべて、このオレ自身が快適に過ごすためだ」

 一息つき、オレは決定的な一言を、氷のように冷たい声で突きつけた。

「貴様のためじゃない。オレのためだ。……それ以上でも、それ以下でもない。わかったか?」

 オレの言葉を聞いたイオは、俯いて黙り込んでしまった。

 ……よし、効いているな。

 オレは内心でガッツポーズを決めると、残っていた紅茶を飲み干し、最後のダメ押しにかかった。

 ゆっくりと立ち上がり、イオの前に回り込み、その怯えた顔を見下ろす。

「……それとも、なんだ? まだ不満そうな顔をしているな。そんなにオレに構われたいのか?」

 ニヤリ、と口の端を吊り上げて、悪役らしく笑ってみせる。

「もっと、こうやって……いじめられたい、とかか?」

 言いながら、オレは人差し指を伸ばし、彼女の白い額を、ツン、と軽く押した。

「そ、そのようなわけではございませんっ!」

 イオが顔を真っ赤にして、裏返った声で否定する。

 よし、完璧だ。完全に怯えきっている。

 オレはその反応に満足し、「ふん、わかればいい」とクールに吐き捨てた。そして、悠然と背を向けると、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。

 ……もちろん、それはすべて演技だ。

 彼女の視界から完全に消え、屋敷の廊下の角を曲がった瞬間、オレはその場にへたり込んだ。

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。心臓が、肋骨を突き破るのではないかと思うほど、激しく打ち鳴らされていた。

 悟られないように振る舞ってはいたが、内心は恐怖で張り裂けそうだったのだ。

 怖すぎる……! なんだ、あいつは……!

 イオという少女が、ただただ恐ろしい。

 もはや、オレにとって彼女は、暗殺者というだけではない。こちらの正体すら見抜きかねない、底知れぬ脅威そのものだった。

◇◆◇

 カイゼル様が去られた後も、私はしばらく席を立つことができませんでした。

 どうしようもなく、心臓がドキドキとうるさく鳴り響いているのです。

 先ほどのカイゼル様の言葉が、頭の中で何度も繰り返されます。

『貴様のためじゃない。俺のためだ』

 冷たくて、ひどいことを言われたはずなのに。

 最後に、人差し指でツン、と押された額の感触が、まだ熱く残っている気がして……。

 どうしてしまったのでしょう、私は。自分の気持ちなのに、まったく分からなくなってしまいました。

 私が一人で混乱していると、不意に、背後の植え込みから楽しそうな声が聞こえてきました。

「いやー、ごちそうさまでした!」

「青春ねぇ……」

 ひょっこりと顔を出したのは、同僚のメイドであるアンナとリナでした。二人とも、頬を紅潮させ、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべています。

「ふ、二人とも! もしかして、見てたの……?」

「もちろん! 最初から最後まで、ばっちりとね!」

「イオったら、もう! めっちゃ愛されてるじゃない!」

 アンナが私の肩をバンバンと叩き、リナはうっとりと両手を頬に当てています。

「『お前をずっと立たせたままなんて、オレが我慢ならない』ですってよ! 聞いた!? あれ、遠回しな愛の告白じゃない!」

「ち、違うよ! あれはカイゼル様が座れって……!」

「はいはい、分かってるって! これぞまさしく、貴族と従者の禁断の愛! 燃えるわー!」

 そんなことないよー! と私が必死に否定しても、二人のからかいは止まりません。

 それどころか、アンナはわざとらしく胸に手を当てて、カイゼル様の真似を始めました。

「『勘違いするなよ、凡俗。……オレが貴様を気にかけているのは、すべて、このオレ自身が快適に過ごすためだ』……きゃーっ! ツンデレ! ツンデレだわ!」

「わかる! 『貴様のためじゃない。オレのためだ』なんて、最高の殺し文句じゃない!」

「ち、違うよ。ただのわがままなだけで……」

 私がむきになって反論すると、リナは「イオは分かってないわねぇ」と、やれやれと首を振りました。

「あれが今の流行りなのよ。最近、王都で大人気の恋愛小説、『氷の公爵様は私にだけ意地悪』に出てくるヒーローそっくりじゃない!」

「そうそう! 素直になれなくて、つい好きな子に意地悪しちゃうタイプの、俺様系王子様!」

 二人にとっては、今日のカイゼル様の言動のすべてが、流行りの恋愛小説の登場人物にしか見えなかったようです。

 そんな馬鹿な、と思いながらも、でも、二人の言い分もわからないこともないような……。

 うぅ……、私はいったいどうすればいいの……!?


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