彰仁は持ってきたバッグを彼女に手渡しながら言った。「バッグ、忘れてたでしょ?」
あぁ、バッグだったんだ……
彼の心遣いに、美咲は思わず恐縮してしまった。両手でバッグを受け取りながらも、彼女は気づかなかった。彰仁がホテルのフロントで受け取った袋と、このバッグを一緒に持ってきてくれたことに――。
美咲はおとなしく彼に別れを告げた。「おじさん、さようなら」
彰仁は静かに頷く。「ああ」
美咲は、慌てて逃げ出すようには見えないように足早に歩いた。しかし走ることはせず、数十歩ごとに振り返り、彰仁の車が走り去るのを確認してから、ようやく安堵のため息をついた。
……
鶴亭荘は富裕層の邸宅街で、見渡す限り一軒家の豪邸が並んでいた。京都圏の名家の多くがここに居を構えており、鶴亭荘に住むこと自体が、顔の利く身分の証とされていた。
美咲は清水家の一人娘ではなく、上に三人の兄がいた。
長兄の清水雅也(しみず まさや)は海外に滞在しており、貧乏教授という肩書きのまま、ぼんやりと日々を過ごしていた。しかし近々帰国し、再び「愛のために働く」つもりらしかった。
次兄の清水明彦(しみず あきひこ)は医者だが、あまりにも漢方医学に執着し、百草を試しては何度も中毒を起こし、ICUに運ばれたという。今も生きているのは、まさに奇跡だった。
三兄の清水康成(しみず やすなり)は貧乏な芸術家で、身体中が絵の具や彫刻の粉にまみれていた。
彼らはみな、並以下の出来だった。
美咲も例外ではなかった。
すべては、父親が若い頃に築き上げた基盤のおかげだった。
清水家は今は表面上こそ華やかに見えるが、実際には以前ほどの輝きはなかった。
彼女にはビジネスの才覚がなく、三人の兄たちも当てにならない。清水家のわずかな家業を必死に支えていたのは、結局、父親一人だった。もし長く根を張っていなければ、とっくの昔に京都圏の名家から追い出されていただろう。
一方、池田家は燕川でも有数の名門だった。
かつて清水家は池田家の隣に住んでいたが、後に鶴亭荘へ引っ越した。当時、美咲と正明は幼い頃から共に育ち、正明は十五歳でH国へ留学し、二十歳で帰国後、エンターテインメント業界に身を投じた。池田家を後ろ盾に勢いは旺盛で、今やその芸能人としての道は大成功を収めていた。
彼女と正明の婚約は、正明が帰国した年に決まった。正明は異議を唱えず、美咲も幼い頃から彼を好いていたため、当然ながら喜んでいた。
その後、正明はいつも仕事を理由に距離を置き、良縁は遅れるものとはいえ、彼女はあまりにも長く待たされていた。二人の関係をもう一歩進めたいという思いは、常に彼女の胸の内にあった。
そして、親友の瑠璃の提案がきっかけで、昨夜の過ちが起きたのだった。
もし彼女が単に人違いで眠ってしまっただけなら、まだ何とかなっただろう。
しかし、相手が彰仁だったため、今や彼女は完全に受け身の立場に追い込まれていた。
「お帰りなさい」
突然の声に、美咲は驚きで身を震わせた。
目を上げると、ソファに正座している藍沢由紀子(あいざわ ゆきこ)の姿があり、美咲は驚いた。「お母さん、昨日はまだミラノでショーを見てるって言ってたじゃない。どうしてこんなに早く帰ってきたの?」
由紀子は娘を見上げ、ゆっくりと問いかけた。「昨夜はどこにいたの?」
「お母さん、なんで急にそんなこと聞くの……」美咲は、すでに緊張し始めていた。
由紀子は目を細め、細長いアイラインで縁取られた瞳は若々しく、力強い印象を与えた。しかし、実際の性格も……強かった。ただし、その強さの多くは、夫、すなわち美咲の父親に向けられるものであった。
「このままじゃ、ますます調子に乗っちゃうわよ!」
美咲は、言葉を失い、ただ「……」とつぶやいた。
由紀子は立ち上がり、美咲の前にゆっくり歩み寄った。「言いなさい。昨夜、どこにいたの?」
このとき、美咲の心は大きく動揺していた。
由紀子は経験豊かな大人で、娘のどんな小さな動きも見逃さなかった。視線が定まらず、自分をまともに見ようとしない娘の様子から、由紀子は推測した。「悪いことをしたの?」
美咲は小さく答えた。「してないよ」
しかし、由紀子はにやりと笑いながら言った。「やっぱり、悪いことをしたのね」
美咲は言葉を失い、ただ「……」と黙っているしかなかった。
由紀子は二歩下がり、腕を組んだ。娘にあまり圧力をかけたくなかったのだ。「正直に話しなさい。人を殺したり、強盗をしたりしたわけじゃないなら、ママが助けてあげる」