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夜――黒いミニバンが、都会の夜道を滑るように走っていた。
街には車があふれ、人々の顔はライトに照らされては流れ去った。誰もが何かを抱えていて、その欲望までは誰にも見えない。
ビジネスイベントを終えたばかりの藤田秋穂が、撮ったばかりの写真をSNSに投稿しながら呟いた。「やっぱりうちの美咲は別格ね。適当に撮っても芸能界の女優たちの半分は軽く超えてるわ」
運転手がバックミラー越しに後部座席を見やる。そこには谷川美咲(たにがわ みさ)が、半分目を閉じたまま窓にもたれていた。栗色のウェーブがかった髪が肩にかかり、白い肌は街灯の光を受けて柔らかく輝いている。
イベントの後で、まだドレス姿のままだった。灰色のファーショールを羽織ってはいたが、そのラインの美しさは隠せなかった。
投稿した写真は、わずか一分で数百件のコメントがついた。
【常識ある人間】:「また体で注目を集めようとしてるの? 疲れない?」
【半分子羊】:「あなたは花瓶がお似合い」
【美咲推しの羽毛】:「美咲ちゃん、やっぱり綺麗!!!」
「……」
藤田秋穂(ふじだ あきほ)はアプリを閉じ、そっと美咲を見た。こうしたコメントは毎日のように目にしていた。それでも毎回、彼女は心の中で美咲の代わりに悔しさを噛みしめていた。美咲は何もしていない。けれど、いつも無意味に叩かれた。
「プルルル――」車内に着信音が響いた。
秋穂はバッグから美咲のスマホを取り出し、手渡した。
表示された名前はマネージャーの山口瑞希(やまぐち みづき)だった。美咲は無言で応答ボタンを押した。
「美咲さん、いま陸奥渉(むつ わたる)監督の新作『霧』のオーディションをやってるの。あなたも受けてみて。すごくいいチャンスよ。連絡先と会場の情報はもう送ってあるわ。私が台本を見たけど、ヒロインのキャラがいい。うまくいけばファン層も広がるはず」
陸奥渉――国内屈指の監督。彼の作品からは、数多くの主演俳優・女優が誕生してきた。もし彼の映画に出演できれば、受賞だって夢ではない。
この数年、美咲は恋愛ドラマばかりに出演していた。瑞希はずっと彼女の女優としての転機を探していた。今回こそ、そのきっかけになるかもしれなかった。
「……うん。わかった」美咲は気のない返事をした。
「近いうちに台本を持って行くからね」
「うん」
電話が切れるころ、車はすでに美咲のマンションに到着していた。
帰宅後、美咲はヒールを脱ぎ、裸足でリビングに入った。ソファにもたれ、天井をぼんやりと見つめた。
窓の外の夜は、墨を垂らしたように深く、広いリビングの静けさは、かえって胸を締めつけた。
やがて、美咲は立ち上がり、バスルームへ向かった。湯船に身を沈めた瞬間、張り詰めていた体と心がゆるんでいった。
三十分ほど浸かり、タオルを巻いたままベッドへ向かった。
枕元のスマホが「ピンッ」と鳴った。秋穂からのスケジュール調整のメッセージ。
その直後、もう一通。今度は母・近藤千尋(こんどう ちひろ)からだった。
「明日、家に帰ってきなさい。藤井彰(ふじい あきら)が帰国したの」
――彰?手が震えた。彼はずっと海外にいたはず。なぜ、今になって……
翌朝、谷川家の車が迎えに来た。車窓の景色が流れていく。やがて車は減速し、静かに高級住宅街へと入っていった。
玄関の前で一瞬、足が止まった。深呼吸をして、ドアを開けた。
「奥様、お嬢様がお帰りになりました」使用人の声が響いた。
母の千尋は振り返らず、隣の人物と親しげに会話を続けていた。
美咲は手で使用人を下がらせ、ゆっくりとリビングへ。
そこにいたのは――彼。ソファに軽く寄りかかり、リラックスした姿勢のままでも、隠しきれない品格があった。
三年ぶりの再会。彼は以前よりも落ち着き、洗練され、男としての色気を増していた。
二十八歳にしてすでに藤井家の当主。メディアは彼を若き天才実業家と呼んでいた。
「お母さん」美咲が声をかけた。
千尋は一瞥し、座るように促した。「彰、あなたと美咲、もう三、四年会ってないのね。今日はゆっくり話してちょうだい」
彰は彼女を見ることなく、微笑だけを残して答えた。「わかりました、近藤おばさん」
千尋は満足そうにうなずき、話を続けた。「思い出したわ。美咲は小さい頃、誰とも遊ばず、いつもあなたの後をついて回ってたわね」
「ええ、あの頃は本当に人懐っこかった」彰の声は淡々としていて、感情の波はなかった。
「あなたのご両親から聞いた? 昔ね、もしうちが男の子で、そちらが女の子なら、親同士で縁を結びましょうって話してたのよ」
「お母さん!」美咲が慌てて言葉を遮った。「今、キッチンで誰か呼んでたみたい」
「あら、そうだったわ!」千尋は笑って立ち上がった。「彰、あなたが来る前に鶏のスープを煮込んでたの。あとでたっぷり飲んでね」
そう言い残し、キッチンへ消えていった。リビングには、美咲と彰だけが残された。
「母の冗談は気にしないで。昔の話よ」美咲は苦笑しながら言った。母の意図はよくわかっていた――この数年で谷川家は傾きつつある。藤井家との縁が繋がれば、再び立て直せる。
彰はようやく視線を上げた。四年ぶりに目が合う。綺麗になった。桃色を帯びた瞳がわずかに伏せられ、どこか世の中に疲れたような気配を纏っている。艶やかで、なのに俗っぽさがない。