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章 3: 結婚届

編集者: Inschain-JA

藤井彰の表情は相変わらず淡々としていて、まるでこの出来事が自分とは無関係であるかのようだった。彼はゆっくりと立ち上がり、無感情な声で言った。「ゆっくり楽しんでくれ。僕は先に行く」

隣に座っていた女性はまだ状況を理解できず、立ち上がろうとしたが、木村健太に肩を押さえられた。

彼女は遠ざかっていく彰の背中を見つめながら、唇を噛んだ。胸の奥に渦巻くのは、どうしようもない悔しさだった。

藤井家には息子はこの一人だけ。もし藤井彰という男を手に入れられれば、一生安泰――そう思っていたのに。それなのに、この貴重な機会を何ひとつ掴めなかった。夜の間、彰は彼女の手すら取らなかったのだ。

彰はまっすぐバーを出て、ポケットから車のキーを取り出すと、そのまま運転席に乗り込んだ。車は京市の夜道を滑るように走り抜け、彼は窓を閉めずに、冷たい風をそのまま受けていた。

どれほど走ったのかも分からない。スピードを緩めたとき、気づけばもう江灣市に着いていた。

彰は別荘の前に車を停めたが、すぐには降りず、車内でタバコに火をつけた。白い煙をゆっくりと吐き出しながら、無言のまま時間を潰した。

「ピンポーン……ピンポーン……」ドアベルの音が響いた。

谷川美咲はちょうど入浴を終えたところで、髪もまだ濡れていた。こんな時間に――誰だろう?

彼女がドアを開けると、そこには藤井彰が立っていた。整った顔立ちが目に入るよりも早く、彰は靴を履いたまま家に上がり込み、片手でドアを押して閉めた。「バン」という音とともに、玄関はぴたりと閉ざされた。

「あなた、どうして――」

言葉の途中で、美咲の唇は彰の唇に塞がれた。そのキスは嵐のように激しく、思考を奪った。

彼の唇が強く噛みつき、美咲は痛みに耐えながらも押し返そうとしたが、両手を捕まれ、身動きが取れなかった。彰は素早く彼女の唇をこじ開けた。

荒い息、タバコの匂い――微かに漂う煙草の甘い香り。彼は酔っているのだろうか?

美咲の体はしびれ、頭がぼんやりとしていった。抵抗できず、ただ彼の流れに飲み込まれていった。

その瞬間、シャツの襟元が強く引かれた。

美咲ははっとして、彼の胸を両手で押した。

彰は唇を離し、彼女を見下ろした。深く暗い瞳の奥に、波のように感情が揺れていた。「一晩、僕に付き合え。そうしたら結婚してやる」

美咲の頭は真っ白になった。信じられないというように、彼の顔を見上げる。「い、今……なんて言ったの?」

彰の唇がわずかに動き、低く響く声が落ちた。「お前、僕と結婚したいんだろ?今チャンスをやる。俺と一晩を共にすれば、明日には翼興業を立て直してやる」

虚勢ではなかった。彼には本当に、それができる力があった。

千尋と康弘の言葉が脳裏をよぎった。美咲は長く息を吐き出し、小さく答えた。「わかったわ」

その言葉と同時に、彼女は静かに目を閉じた。次の瞬間、男の唇が再び降りかかった。肌にひやりとした空気を感じ、美咲はそっと顔を背けた。

「部屋に行きましょう」かすれた声でそう呟いた。

彰は片腕で彼女を抱き上げ、手探りで寝室へと向かった。

翌朝。

美咲は山口瑞希の電話の音で目を覚ました。隣にはもう男の姿はなく、温もりさえ残っていなかった。きっと、かなり前に出ていったのだろう。

携帯がけたたましく鳴り続けている。手探りで枕元の電話を取り上げ、通話ボタンを押すと、瑞希の明るい声が耳を打った。

「昨日どうしたの?何回も電話したのに出ないから心配したよ」

美咲は小さく息をついた。確かに昨夜、電話の音を聞いた気がした。だが、一、二回鳴ったところで、彰に切られてしまったのだ。

彼女は声を整え、平静を装って答えた。「昨日はぐっすり寝ちゃって、気づかなかったの。何かあった?」

「今日の午後の雑誌撮影がキャンセルになったの。来週の月曜日に変更だって」

「わかったわ」

「それから、『霧』の脚本は読んだ?」

「読んだ」

脚本を受け取ったその日に、美咲はすぐに目を通していた。物語は完成度が高く、登場人物も魅力的だった。警官と謎の女殺し屋の愛と葛藤を描くサスペンス――主軸は恋愛ではなく、緊張感ある展開が売りの作品だった。賞を狙っているのは明らかだった。

「どう思う?」

「悪くないわ」

「でしょ?」瑞希は弾む声で笑った。「あなた、絶対気に入ると思ったの。オーディションは今週の金曜よ。それまで台本をよく読み込んでおいてね」

「了解」

電話を切った後、美咲は額を押さえた。体がまるで大型トラックに轢かれたように痛んだ。

彼女はゆっくりと身を起こし、全身に残る粘つく感触に顔をしかめた。昨夜、すべてが終わったあと、二人は疲れ果ててそのまま眠り込んでしまったのだ。

シーツに残る紅い跡を見て、胸の奥がざわついた。

体は重かったが、美咲はなんとか立ち上がり、シャワーを浴びた。

翌日。玄関のベルが鳴った。

ドアを開けると、見知らぬ男性が立っていた。三十代ほどの穏やかな笑みを浮かべた男で、スーツ姿も整っていた。

「初めまして。叶野隼人(かのう はやと)と申します。藤井さんの秘書です。お迎えに上がりました」

「お迎え?どこへ?」

「婚姻届の手続きです」叶野はきっぱりと言った。

「婚姻届?」美咲は目を見開いた。

「はい」

叶野は軽く体を横に向け、手で促す仕草をした。「では参りましょう、谷川さん」

「でも戸籍はまだ実家に……」美咲は彰の手際の早さに驚きを隠せなかった。

叶野は穏やかに微笑んだ。「その点はご心配なく」

彰の車はロールスロイス・ファントムだった。美咲が乗り込むと、彼は後部座席で無言のままスマートフォンを眺めていた。

あの夜以来、美咲は彼を見るだけで心が落ち着かなかった。

自然と、彼との間に距離を取って座った。

彰はちらりと彼女に視線を向け、眉をわずかに寄せた。「僕の体にトゲでもあるのか?」

「え?」美咲は意味が分からず首を傾げた。

「こっちに来い」低く命じる声。

「はい」美咲は小さく尻をずらし、彼の隣に寄った。

役所を出たとき、美咲はまるで夢の中にいるようだった。自分が――藤井彰と本当に結婚したなんて。

手の中の赤い証書を見つめながら、何の感情が勝っているのか分からなかった。

嬉しさなのか、諦めなのか。

実は、美咲にはずっと秘密があった。彼女は彰のことを十年間、ずっと好きだったのだ。十六歳から二十六歳まで、心の中には彼しかいなかった。

高校時代から、美咲はこの少年に心を奪われていた。

当時の藤井彰は傲慢で、誰よりも輝いていた。彼は神の寵児と呼ばれ、学校中の少女たちが彼に恋をした。もちろん、美咲もその一人だった。

彼女は他の女の子のように積極的ではなかった。ラブレターを書くことも、手作りの菓子を渡すこともできなかった。ただ、静かに彼を見つめていた。バスケの試合中に水を差し入れたり、運動会では声が枯れるまで応援したり。

それでも、彼の心は動かなかった。

彼女は、それでもいいと思っていた。恋人になれなくても、友人でいられるなら、それで十分だと。

だが、大学のある出来事を境に、すべては崩れ去った。

大学四年の春、美咲は彰の親しい友人たちを集め、誕生日パーティーを開くことにした。その場で、自分の気持ちを伝えるつもりだった。

彼女はその日のために長い時間をかけて準備した。

プレゼントも、一ヶ月以上悩み抜いて選んだ。

彰の誕生日は七夕――一年で最もロマンチックな日だった。

木村健太によると、彰の好きな色は青だという。だからその日、美咲は青い花柄のワンピースを身にまとい、黒髪をふんわりとカールさせていた。

「健太くん、彰くんは来た?」長い準備の末の本番。胸の鼓動が止まらない。

木村はドアの外を覗きながら言った。「安心しろ。来たら呼んでやる」

「うん」

木村健太も美咲を妹のように思っていた。だからこそ、その表情には優しさがにじんでいた。

「来たよ」木村がそう言って、部屋の灯りを落とした。

個室は一瞬で闇に包まれた。その瞬間、美咲は自分の鼓動をはっきりと感じた。

一つ、二つ、三つ。ドクン、ドクン、ドクン。


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