「大学卒業前に二人で旅行しよう」
そう彼から言われて舞い上がっていた。
「俺はロサンゼルスがいいな。飛行機のチケットだけ取って、あとは現地でホテルや食事を決めようぜ」
「えぇ? 無謀!」
「大丈夫! 俺、英語得意だし!」
今日から2週間。
自由気ままな旅をしようと約束をしていたのに。
「ごめん、莉奈」
まさか当日に彼が来ないなんて。
「ユージ、早くぅ、お姫様抱っこして〜」
電話の向こうで聞き慣れた声がする。
同じ大学の友人、結衣の甘えた声だ。
スマホを持つ莉奈の手が震えた。
「朝9時に空港で待ち合わせって」
「あぁ。ごめん、結衣が……」
私と二人で旅行なのにどうして結衣と一緒なの?
聞きたいことも言いたいこともあるはずなのに、上手く言葉にならない。
莉奈はゆっくり耳元からスマホを下げ、通話を切った。
「どうして……」
拭いても拭いても涙が溢れて止まらない。
「昨日言ってくれればいいのに」
まさか空港まで来てフラれるなんて思っていなかった。
このまま家に戻って、来週からいつも通り大学に行って裕司と結衣に会う。
そんなのは嫌だ。
このままどこかへ行ってしまいたい。
「アメリカ、カナダ……」
出発便案内の電光掲示板が切り替わる。
「ボリビア……。そういえば雑誌で見たウユニ塩湖の写真、綺麗だったなぁ」
空と地上の境界線がない青空の写真だった。
「見てみたい」
ロサンゼルスは彼が決めた行先。
どうせ一人で行くなら、自分が行きたい所へ。
莉奈は荷物を持って立ち上がった。
「嘘だ! 嘘だ!」
ニュースを見ながら、彼は泣き叫んだ。
『スズハラ リナ』
テレビ画面に映る乗客名簿。
そこには彼女の名前があった。
今日から一緒にロサンゼルスへ行くはずだったのに。
急いで空港へ行ったが莉奈には会えなかった。
電話はずっと通じない。
チケットは2枚ともキャンセルされていたが、夜になっても莉奈はマンションに帰ってこなかった。
「どうして!」
どうして太平洋沖で消息を絶ったその飛行機に彼女が乗り合わせているのか。
「俺のせいで莉奈が」
どんなに後悔しても、もう莉奈には会えない。
裕司は強く握りしめた両手を思いっきりテーブルに叩きつけた。
◇
暗いトンネルの先は真っ白な世界だった。
「飛行機に乗っていたはずなのに……?」
莉奈は不思議な景色に首を傾げた。
真っ白すぎる空間には何もなく、広さもわからない。
振り返ってみたがトンネルの中は真っ暗で何も見えなかった。
「……暗い場所よりは明るい場所かな」
暗いトンネルから白いセカイへ。
一歩足を出すとリィンという小さな鈴の音が響いた。
どこからともなく現れた少女が真っ白な空間にふわりと降り立つ。
白い髪は少女の身長と変わらないほど長く、巫女のような白衣・白い袴。
透き通るような白い肌。
まるで、このセカイが少女のものであるかのような不思議な感覚だった。
少女が手にしたサッカーボールほどの球は、幻想的な模様を彩りながらどんどん模様を変えていく。
その綺麗な球から白いセカイに青色が落ちた。
「……川? 向こうは海?」
青色は白いセカイの奥へ流れていく。
まるで絵具で塗り分けたかのような綺麗な境界線だ。
「わっ!」
思わぬ突風に顔を腕で覆った莉奈は、若草の少し尖った匂いにクシャミが出そうになった。
「……え? 草原?」
いつの間にかここは丘の上。
そよ風が吹き、草が揺れる。
広大な大地、そして海。
「どうしてあんなに小さな球からクジラが出てくるの?」
少女の球はいつの間にかソフトボールほどの大きさに。
「何で馬とタコが一緒に入っているの?」
生き物達は川から海へ、草原から森へと走っていく。
まるで自分の住処がわかっているかのように。
「え? ドラゴン?」
莉奈の近くを黒いドラゴンが通過する。
金眼の大きなドラゴンと目が合ったが、なぜか襲われるという気持ちにはならなかった。
手の中の球が消えると同時に、少女の口が動く。
『 』
声は聞こえない。
莉奈が首をかしげると白い少女は手を広げ、ゆっくりと辺りを見回すように回転した。
『 ひ み つ 』
右手の人差し指を口元にあてながら白い少女は微笑む。
あぁ、このセカイを作ったのが自分だということは秘密だということか。
莉奈は小さく頷いた。
『 ま た ね 』
「待って! ここは……」
どこなの? と聞く間もなく、莉奈の体は強い力で押しだされた。
これが鈴原莉奈の最後の記憶。
まさか自分が異世界へ行くなんて。
このあと壮絶な運命が待ち構えているなんて。
侯爵令嬢リリアーナに転生した莉奈はまだ知る由もなかった――。
◇
「はぁ。また読めない字だ」
穏やかな昼下がり。
別邸の庭でリリアーナは本を眺めながら溜息をついた。
寂れた建物。
雑草だらけの庭。
父ハインツ・フォード侯爵がこの別邸を訪れることは滅多にない。
「あ、今日は庭に出たらダメな日だ」
リリアーナは急に騒がしくなった使用人の様子で兄エドワードの訪問を知った。
庭の木陰はこの別邸で唯一のお気に入りの場所だったが、兄が魔術の練習をするのであれば退かなくてはならない。
リリアーナは本を閉じ、急いで立ち上がった。
「リリー、いいよ。そこにいても」
優しい声と共にゆっくり歩いてくる兄エドワード。
風に揺れたサラサラの金髪、綺麗な青眼。
まだ10歳だというのに整った顔立ちの兄はズルい。
絶対モテるに決まっている。
それに引き換え自分はゆるやかなウェーブの纏まらない黒髪、地味な黒眼。
兄妹というのが疑わしい。
「お兄様、先生、ごきげんよう」
本を小脇に抱えたままスカートの端を少しつまんで挨拶する。
どうしよう。
兄には会ってはいけないと父に言われていたのに、庭で鉢合わせしてしまった。
「今日は体調が良いの?」
「え? 体調?」
兄エドワードの質問にリリアーナは首を傾げた。
「こんにちは、お嬢様。その本は魔術の本ですね」
「僕が昔読んだ本だね」
そうか、兄のお下がりなのか。
当然と言えば当然だが。
「お嬢様はいくつですか?」
「5歳です。リリアーナと言います」
「5歳で魔術の勉強をするなんて偉いですね」
眼鏡をかけた家庭教師は片膝をつき、リリアーナと目線を合わせた。
「私はエドワードくんの家庭教師、ノアールです」
男性にしては長めの緑髪を片側に束ねた魔術の家庭教師。
彼も顔面偏差値が高い。
この世界はイケメンが多いのだろうか?
「7歳になったら魔術が使えますからね。楽しみですね」
ノアールはそっとリリアーナの頭を撫でるとスッと立ち上がった。
「7歳?」
「7歳になったら教会で神託を受けてね、どの魔術に適性があるかわかるんだよ。僕は父上と同じ『水』属性! リリーも『水』だろうね」
「どうして?」
「フォード家は『水の一族』なんだ」
エドワードはリリアーナに本を持たせたまま基本のページを開く。
左の手のひらを上に向け、右手で本の字をなぞった。
「水の精霊|η《イータ》の加護を我に。ウォーターボール」
エドワードの左手の上に小さな水の球が浮かぶ。
「すごい」
どこからどうやって水が出るのだろうか?
何もないところから急に水が現れたように見えた。
「みずのせいれいイータアーのカゴをわれに。ウォーターボール」
リリアーナも左手を上に向けて真似をする。
「……出ない」
まだ5歳だから?
それともどこか間違えた?
手をグーパーしてみたが、リリアーナの手に水の球が出る事はなかった。
「イータアー?」
「|η《イータ》」
読み方がわかっただけでも良いか。
溜息をつきながらリリアーナはパタンと本を閉じた。
それにしても唱える言葉が長くないか。
魔法っていうのはポンと使えないと、いざという時に間に合わないのでは?
そう思ってしまうのは前世の影響だろうか。
たとえばそう、マッチに火をつけるように。
リリアーナは本をマッチの箱、右手の人差し指をマッチ棒に見立て火をつけるイメージで腕を動かした。
胸の辺りにぞわっとした変な感触が沸き起こり、温かい何かが腕を通って指先へ。
「ひゃぁ!」
リリアーナの小さな指の先に一瞬オレンジの炎が灯ったが、すぐに炎は見えなくなった。
指は痛くない。
だが、目の前が真っ暗に――。
「リリー!」
ひっくり返る小さな妹にエドワードは腕を伸ばしたが届かなかった。
代わりにノアールが受け止める。
「火? え? どうして? うちは『水の一族』なのに……?」
倒れたリリアーナを見ながらエドワードは困惑した声でつぶやいた。