「うん」玲奈は短く答え、躊躇うように唇を開いた。「お父さん、お母さん」
原作の脚本において、阿部夫婦は極めて実直で善良な人々として描かれていた。血の繋がらない玲奈を実の娘同然に慈しみ、心から愛していたのだ。
玲奈自身には、幼い頃から両親がいなかった。だからこれは、彼女が人生で初めて、演技ではなく呼んだ「父母」だった。
「ああ……帰ってきた、帰ってきたんだねえ」阿部の母の瞳が潤み、皺の刻まれた目尻から涙がこぼれ落ちた。
玲奈の痩せた身体を気遣わしげに見回し、胸を痛めたように顔を歪める。「お前、そんなに痩せて……。一体どうしたんだい」
「ちょっと番組に出ることになったの。二人も一緒に連れて行くわ」玲奈は努めて明るく説明した。「荷物をまとめて。私と一緒に二、三日旅行に行くと思ってくれればいいから」
「えっ、テレビに出るのかい? いやいや、とんでもない! 私たちみたいなのが出たら、お前の恥になるだけだよ……」
「じゃあ、私一人で行かせるつもり?」玲奈は困ったように笑い、肩をすくめた。「これ、親子番組なのよ。みんな両親と一緒に出るのに、私だけ一人ぼっちなんて格好がつかないでしょ?」
「だけど……」母は言葉を濁し、視線を泳がせた。彼女が言いたいことは分かっている。あちらの、本当の両親である坂本家の人々と一緒に出るべきではないのか、と。
相手は大富豪だ。自分たちのような日雇い労働者とは違う。玲奈の足を引っ張り、恥をかかせるだけではないかという懸念。
「『だけど』はなし。遅刻したら、監督にギャラを減らされちゃうわ」玲奈は母の不安を察していたが、あえて詳しくは説明しなかった。片眉を上げ、強引に話を切る。「とりあえず、中に入って」
阿部夫婦は顔を見合わせたが、それ以上は何も言わず、スタッフたちを家の中へと招き入れた。
「どうぞ、どうぞ。散らかってますけど」父が慌てて水を汲みに走り、母は古びたソファの座面を手で必死に払って、埃を落とす仕草をした。「座ってください。何のお構いもできませんけど」
「あ、いえ、お気遣いなく! 仕事中ですので、空気だと思ってください」あまりに腰の低い二人の態度に、スタッフたちは恐縮して手を振った。
実直な二人は何を話せばいいのか分からず、ただおろおろと玲奈を見つめている。
PDがカメラを室内に向けた。レンズが、阿部家の全貌を映し出す。
狭い。二十平米ほどのダイニングキッチンには、生活用品が所狭しと積み上げられている。塗装の剥げた家具。縁が擦り切れて中綿が見えそうな布張りソファ。
部屋は二つしかなく、玄関から奥まで一目で見渡せてしまう。
二人がまとめた荷物も少なかった。着替えが二組に、靴が一足ずつ。
スーツケースすらない。使い古されたデニム生地のボストンバッグ一つに、二人分の荷物がすべて収まってしまった。
玲奈は傍らでそれを見つめ、眉をひそめた。本当に、貧しい。原の玲奈がこの家に戻ることを拒んだ理由が、痛いほどよく分かる。
配信画面のコメント欄は、騒然となっていた。
『は??? これが坂本玲奈の実家? マジで?』
『嘘でしょ……』
『誰だよ、坂本家の令嬢だとか言ってた奴。これ完全に貧民窟じゃん』
『お前ら性格悪すぎ。ご両親が気を使ってるの見てて辛くなるわ』
『ざまぁwww 今まで散々金持ちアピールしてたくせに、これが現実かよ。親のこと隠したがるわけだわ』
『正直、今日は玲奈がフルボッコにされるのを見に来たんだけど……なんか、堂々としてて逆にかっこよくない? しかもバチくそ美人だし』
PDの青年も困惑していた。てっきり、今日は修羅場が見られると思っていたのだ。ワガママな玲奈が貧しい親を罵倒するとか、泣き叫ぶとか。
だが、目の前の光景は予想とはまるで違っていた。
玲奈は流れるコメントには一切目をくれず、テキパキと両親の身支度を手伝った。「よし、行こうか」
出発しようとしたその時、母が不安げに玲奈の手を握った。「玲奈、本当に……いいのかい?」
玲奈は足を止め、振り返った。母の手を握り返し、柔らかく微笑んだ。「私に任せて」
握られた手を見る。節くれ立ち、荒れた手。けれど、温かい。これが母親の手か。悪くない。
玲奈たち一行がロケバスに乗り込み、出発した頃。
阿部家の家族用グループLINEに、通知が連続して鳴り響いた。
阿部拓也(あべ たくや):『!?!?』
『玲奈が帰ってきたってマジ!?』
*
午後二時。六組の家族が、番組指定の集合場所である海辺の別荘に続々と到着していた。
村上美咲と井上昭彦の家族はすでに到着済みだ。
そこへ、岡本凛太郎と坂本愛莉の二組が同時に現れた。
両家はビジネス上の付き合いもあり、以前からの顔なじみだ。
車を降りるなり、凛太郎は甲斐甲斐しく愛莉のもとへ駆け寄り、荷物を持ってやる。
淡いブルーのワンピースを纏った愛莉。隣に立つ長身で端正な顔立ちの凛太郎。絵に描いたような美男美女のツーショットに、現場の空気が華やいだ。
コメント欄も再びヒートアップする。
『キタキタキター! エリリンCP夫婦最高!』
『もうこれ結婚式だろ。他の家族は参列者かな? 尊い……眼福すぎる……』
『なお、この後ここに邪魔者が来る模様』
『玲奈のこと? 空気読んで来ないでほしいわマジで』
『まだ玲奈のこと叩いてる奴いんの? さっきの配信見てないの?』
『まだ玲奈を擁護する人がいるなんてw、貧乏人が来たところで、この並びに入ったら公開処刑だろww』
玄関ホールで、各家族が挨拶を交わす。
村上美咲は人気ガールズグループのメンバーだ。愛らしいルックスと愛嬌で人気が高い。
彼女の両親も音楽関係者で、どこか芸術家肌の上品さが漂う。
井上昭彦はボーイズグループのアイドル。愛莉と同じオーディション番組出身の後輩にあたる。歌とダンスの実力は確かだが、性格は直情型で、いわゆる「おバカなイケメン」としてバラエティでも引っ張りだこだ。
彼の両親は商売人で、坂本家や岡本家の姿を見るなり、愛想よく挨拶に向かった。
その中で、坂本家の父・昭文は圧倒的な存在感を放っていた。保温ボトルを片手に、ゆったりと背筋を伸ばして立つ姿は、まさに財界の大物。
そして、凛太郎の母・岡本瓊子(おかもと けいこ)。彼女は京都の名門・岡本家の出身であり、自身も辣腕の実業家として知られている。
トップスター同士の子供と、財界の重鎮である親たち。この二家族が揃えば、そこが世界の中心になる。
『坂本パパの貫禄やばい。ドラマに出てくる会長そのものじゃん、愛莉ちゃんマジでお姫様だな』
『岡本ママも坂本ママも品が違うわ。凛太郎監督のお母さんって、あの名優・岡本の姉なんでしょ?』
『そうそう! 美形家系だよな。姉と甥をよろしくお願いします〜』
『上の人目を覚まして、何杯飲んだらそうなるの。でも愛莉と凛太郎は確かに門閥が釣り合ってる!美男美女、推せる!』
『こんなハイスペック一族の中に割って入ろうとしてた玲奈って……岡本監督とCPを売って、身の程知らずにも程がある。育ちが違うんだよ、育ちが。貧乏人の娘が何背伸びしてんだか』
村上美咲がお茶を配りながら、何気なく尋ねた。「小林昭夫さんと坂本玲奈さんはまだですかね? どの辺だろう」
玲奈の名が出た瞬間、凛太郎が露骨に眉をひそめた。
愛莉の熱烈な信奉者である井上昭彦が、鼻で笑う。「玲奈? あいつ、本当によく来れるよな。全人類が笑いものにする準備万端だってのに。そのメンタルの強さだけは見習いたいわ」
村上美咲は苦笑いして言葉を濁した。
井上はこういう所がある。「話題クラッシャー」の異名は伊達ではない。
『昭彦www 言い過ぎwww でも正論。俺なら恥ずかしくて辞退する』
『これを直接的と言うの?無礼じゃない?』
『昭彦、口を慎めww お母さんが後ろでハラハラしてるぞ』
坂本昭文(さかもと あきふみ)は冷たく鼻を鳴らすと、カメラに背を向け、声を潜めて愛莉に尋ねた。「玲奈の奴、まだ来てないのか? お前の母親に同伴を頼んだんじゃないだろうな? これ以上、家の恥を晒すような真似は……」
愛莉は首を横に振った。「ううん、聞いてないよ。お父さん、そんな言い方しないで。玲奈ちゃんも私たちの家族なんだから……。お兄ちゃんたちにお願いして、付き添ってもらえばよかったかな」
「構うことはない。来るなら勝手に来ればいい。恥さらしが」
昭文は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
愛莉は唇を噛み、困ったように俯く。
その時だった。外から車のエンジン音が聞こえた。玲奈と小林昭夫の家族が、同時に到着したようだ。
小林昭夫はベテラン俳優で、誰もが知る名バイプレイヤーだ。業界内での人望も厚い。
両親は普通の人々で、年齢も最も高かった。
彼が着いたと聞き、全員が玄関へと出迎に出た。
ドアが開く。最初に目に入ったのは、坂本玲奈と、阿部夫婦が立っていた。
その場にいた全員の動きが、一瞬、止まった。
「えっ……誰???」井上昭彦が、間の抜けた声を上げて凝視した。
なんだあの、とんでもない美人は。