詩織は必死に両手で彼の胸を押し返した。
心臓は早鐘を打ち、声も上ずる。
「ちょ、ちょっと……先に離してよ!」
今の体勢は、あまりにも恥ずかしすぎる。
「……なら、正直に言え」
孝宏の声は低く冷たい。
詩織はちらりと扉の方を見た。
「外に……まだ人がいるのよ。それに、ドアだって開けっ放しで……」
孝宏はわざと彼女の耳元に顔を寄せ、牙を立てるように軽く噛んだ。
「だったらいいじゃないか。人前で、生中継でもしてやろうか?」
「ついでに、昨夜の続きを思い出させてやる」
――この人、なんて大胆なことを……!
彼は言えても、彼女は聞く勇気がなかった。
耳まで真っ赤になった詩織は、ぎゅっと目を閉じるしかなかった。
彼の言動はどんどん手に負えなくなっている。
そのとき、不意に携帯の着信音が鳴った。
彼のだった。
孝宏はポケットから取り出すと、無造作に切る。
その隙を逃さず、詩織は身を翻し、ベッドから飛び降りて部屋を飛び出した。
……
外に出るとすぐタクシーを捕まえ、乗り込む。
今日は取引の約束があった。これ以上の遅刻はまずい。
20分後。
タクシーが止まったのは高級ジュエリーショップの前だった。
詩織が中に入ると、ちょうど向かいから男が歩み寄ってきた。
手にはひまそうに瓜子をつまみ、気怠そうな声で笑う。
「おお、久しぶりだな、詩織ちゃん。相変わらずきれいになったじゃないか」
「世間話はいいわ。ブツは?」詩織の表情は冷たい。
「おまえは相変わらずだな」
渡辺拓也(わたなべ たくや)は肩をすくめると、奥へ案内した。
ガラス種、帝王緑、濃艶な紫……どれも一級品ばかりだった。
「こんな上物、本来ならコレクション用だろうに。よく手放す気になったわね」
詩織が目を細めると、拓也は苦笑する。
「手放したくはないさ。でも、ちょっと急に金が要ってね」
そう言い残して、彼はお茶を淹れに部屋を出た。
――その時だった。
店の入り口から、黒のロングコートに身を包んだ男が現れる。
鋭い気配と冷たい眼差し。立っているだけで周囲の空気が張り詰める。
「……いらっしゃいませ。ご用は?」
拓也が声をかけると、男は一瞥をくれただけで言った。
孝宏はまぶたを上げ、彼を一瞥して「買い物じゃない。」
「それでは…」
「人を探している」
「誰を?」
「秦野という苗字の者だ」
拓也は一瞬ためらい、試すように問い返した。
「詩織か?」
孝宏は答えず、そのまま奥へ歩き出す。
拓也は前に出て彼を止め、「ちょっと、お客さん!勝手に入られちゃ困る!」
孝宏は足を止め、冷たい声で「なら、呼んでこい」
「……あんた、彼女の何なんだ?」
「友達?上司?兄弟?それとも…」
「夫だ」
短いその一言に、拓也は目を丸くした。
――夫?聞き間違いか?
拓也は振り返り、部屋に向かって歩いていった。
苦笑しながらも部屋の方へ声をかける。
「おーい、詩織ちゃん。旦那さんが迎えに来てるぞ!」
中で翡翠を選んでいた詩織は、思わず吹き出した。
「バカ言わないで。私に夫なんていないわ」
だが、背後から小さな咳払いが聞こえた瞬間、
全身が硬直する。
この気配……まさか。
一体どんな化け物がこれほどの存在感を持っているのか!
恐る恐る振り返ると――そこに孝宏が立っていた。
冷ややかな瞳と視線が重なった途端、詩織の手からバングルが滑り落ち、床に砕け散った。
詩織の瞳が少し縮み、驚いて手にしていたブレスレットを落とし、それは床に落ちて二つに割れた。
「な、なんでここに……!?」心臓が凍りつく。まるで監視されているようだ。
このとき、拓也は苦笑混じりにからかう。
「結婚してたなら、俺に一言くらい言えよ。酒の席で祝ってやったのに」
「黙れ!」
詩織は顔を赤らめ、睨みつける。
孝宏は微笑とも冷笑ともつかぬ顔で二人を見ていた。
その目は冷たい怒りを孕んでいる。
――この目。何度も見たことがある。
詩織は悟った。
彼が怒っている、と。
これが男というものの、生まれ持った独占欲なのかもしれない。
元彼女のそばに他の異性がいるのを見て、彼が心の中で不快に思うのは当然だった。
拓也は空気を読み、そそくさと部屋を出て行った。
残された孝宏は、無言で一歩踏み出すと彼女の腰をがっちり掴み、強引に引き寄せた。
「許可もなく……俺から逃げるつもりか?」声は低く、凍てつくほど冷たい。
「痛っ……!わ、私たちはもう別れたの!どこに行こうが私の勝手よ!」
孝宏の口元に、嗤いが浮かぶ。
「別れただと?俺は一度も認めた覚えはない」
「昨夜、俺に抱かれたんだ。おまえはもう一生、俺の女だ」
――抱いたのは彼の方じゃない!
体中が痛むほど、あの夜は容赦なく奪われ続けて……。
この男は本当に節制を知らない!
詩織は必死に睨み返す。
「ふざけないで。あなたなんてもう、ただの他人よ!」
「他人?」孝宏は薄く笑った。
「家では『あなた』、ここでは『他人』。秦野さん、俺にどう評価されたい?」
「思い出してみろ。誰が自分から『あなた』って呼んだ? 誰が俺の腰に縋って『痛いから吹いて』と甘えた?」
彼は顔を寄せ、耳元で囁く。
「……なあ、もう一度『あなた』って呼んでみろよ」
耳先に熱い吐息がかかり、詩織の頬はたちまち紅潮する。
必死に押し返そうとするが、力の差は歴然。まるで抱きしめられるのを拒めないみたいだ。
知らない人が見たら、ただの熱烈な恋人同士にしか見えないだろう。
「お願い……先に離して……」
詩織は悔しさに唇を噛み、震える声で言った。
孝宏の口角が吊り上がる。
「離せ?――昨夜もおまえ、そう言ったな」
瞬間、詩織は顔から火が出るほど真っ赤になり、穴があったら入りたい気分だった。
昨夜の記憶だけで、身体が熱くなる。
この男は、いつだって危ういほど激しくて、狂おしいなのだ――。