第05話:偽りの事故
「きゃあああああ!」
彩霞の悲鳴が施設の廊下に響き渡った。
詩織は呆然と立ち尽くしていた。目の前で彩霞が階段を転げ落ちていく。まるでスローモーションのように、一段一段を転がっていく姿が網膜に焼き付いた。
「何があった!」
怜の声が下から響く。慌てた足音が階段を駆け上がってくる。
彩霞は踊り場で止まり、苦痛に顔を歪めながら足首を押さえていた。
「彩霞!」
怜が彩霞の元に駆け寄る。その目は詩織を鋭く睨みつけた。
「詩織、お前何をした!」
「私は何も……」
「嘘をつくな!」
怜が詩織を突き飛ばした。詩織の体が壁に激しくぶつかる。
「怜……詩織を責めないで」
彩霞が弱々しい声で呟いた。涙を浮かべながら、まるで聖母のような表情を浮かべている。
「私が勝手に転んだの。詩織は悪くない」
その言葉が、かえって詩織の罪を強調していた。
「彩霞に何もなければいいが……そうじゃなかったら、ただじゃ置かない」
怜の声は氷のように冷たかった。詩織を見る目に、愛情のかけらもない。
怜は彩霞を抱き上げ、階段を下りていく。
「大丈夫だ、すぐに病院に行こう」
優しい声で彩霞を慰めながら。
詩織は一人、壁にもたれかかったまま動けずにいた。
「詩織さん」
院長が現れ、詩織を助け起こした。しかし、その目には困惑の色が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」
院長の声に、いつもの親しみやすさはなかった。
詩織は院長を見つめた。この人も信じてくれない。誰も信じてくれない。
「あなたとは……もう友達だと思っていたのに」
詩織の声は震えていた。
院長は視線を逸らした。
「詩織さん、今日はお帰りになった方が……」
詩織は何も言わずに施設を後にした。
車の中で、詩織は震える手でハンドルを握った。心臓が激しく鼓動している。
彩霞の計算された演技。怜の冷酷な視線。院長の疑いの目。
すべてが詩織を追い詰めていく。
家に帰る途中、詩織は車を路肩に停めた。
もう限界だった。
詩織はスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。五年間、一度も連絡していない番号。
指が震えながら、その番号をタップする。
コール音が響く。一回、二回、三回。
「はい」
低く落ち着いた男性の声が聞こえた。
詩織の心臓が跳ねる。
「あなたと私の婚約、まだ有効なの?」
沈黙が流れた。
「……詩織か」
九条(くじょう)響の声だった。
「久しぶりだな。五年ぶりか?」
響の声には皮肉が込められていた。
「で、なんで今さらそんなことを聞く?」
詩織は唇を噛んだ。
「答えて」
「随分と上から目線だな」
響が苦笑する。
「まあいい。有効だ。ずっと有効のままだ」
詩織の胸に、かすかな希望が灯った。
「そう」
「詩織、お前に何があった?」
響の声が真剣になる。
「今度話す」
詩織は電話を切った。
その直後、スマートフォンにメッセージが届いた。
彩霞からだった。
GIF画像が添付されている。怜が彩霞の靴紐を結んでいる映像。彩霞の足首には包帯が巻かれ、怜が優しく世話をしている。
詩織の手が震えた。
その時、電話が鳴った。
響からの着信だった。
「もしもし」
「詩織、さっきの電話で気になったことがある」
響の声は鋭かった。
「お前の結婚、本当に有効なのか?」
詩織の息が止まった。
「ちょっと気をつけてれば、住民票が偽物だってもっと早く気づけたはずだよ?」
響の言葉が詩織の心を貫いた。
「三分で分かったぞ。お前が五年間気づかなかったことを」
詩織の目から涙がこぼれ落ちた。
「響……」
「詩織」
響の声が優しくなった。
「俺と君の婚約は、永遠に有効って意味だ。君さえ望めば、俺はいつでも。詩織の正式な夫になる準備ができている」
詩織の心に、久しぶりに温かいものが流れた。
「来週の月曜、潮ノ宮の市役所前で会おう」
詩織の声は決意に満ちていた。
「分かった」
響が即答する。
「待ってる」
電話を切った詩織は、初めて本当の笑顔を浮かべた。
新しい人生が、始まろうとしていた。